2015年1月24日土曜日

恩師論 (2)

 だからと言って恩師の存在に意味がないというわけではない。恩師は私たちに人生の上での非常に大きな指針や勇気を与えてくれるなくてはならない存在である。
私が言いたいのは、恩師とはある種の出会いを持てた相手であるということである。その人が継続的に自分に影響を与えるようなイメージは持たないほうが良い。だから出会いの数だけ恩師がいていいのだ。そこで・・・
①恩師との体験は、「出会いのモーメント」である。

恩師との体験について考えると、治療体験とどこか似ている。ボストングループの「出会いのモーメント」でもいいし、村岡倫子の「ターニングポイント」でもいい。その出会いで何かが起きることで、物事の考え方が(いい方向に)変わる。そこには治療関係と似たことが起きるのだろう。(というより臨床についてのセミナーなので、そちらに近づけなくちゃね。)
ただしメンターとの出会いは、現実という海の中にある。治療関係のような一種の「ぬるま湯」ではない。だから出会いは外傷ともなる。
テレビでこんな話をやっていた。ある野球選手が、監督から、試合でのミスを何度も言われたという。「お前のアレであの試合は負けたんだ。」それをことあるごとに口にされたという。悔しい思いをしたその選手は、監督を恨んだが、そのうち毎朝ランニングをして体を鍛え、それを晴らそうとした。そして一年後に大きく成長し、試合で立派な結果を残すことが出来た。後にその監督は言ったという。「あいつは負けず嫌いだから、発奮すると思い、わざとああいうことを言い続けたのだ。」 それを聞いた選手は、その監督に対する深い感謝の念がわいたという。
 どうなんだろう、この話。まあ、ありえない話ではないけれど、現実という海の中でこれが起きると、この種の体験がトラウマになって、監督を恨み通す選手も当然出てくるだろう。この種の美談の裏に死屍累々としているのは、「いやな監督(先輩)にいびられ続けてすっかりやる気を失ってしまった」という体験談なのだろう。
この話の教訓1.監督のいびりに発奮した選手がなんと言ってもえらい。これを仮に「出会う側」ファクターと呼んでおこう。
2.監督は本当は単に意地悪だったのかもしれない。そしてこの選手により監督として「育てられた」のかもしれない。本当はわからないけれどね。
とにかく私たちが陥りがちな過ちは、恩師は一人の尊敬すべき人間という考えである。たいていの人間はそうは行かない。なぜなら優れた点とショーもない点を持った生身の人間に過ぎないからだ。だからいろいろな人から出会いをもらい、それを自分で統合するしかない。人生のあの部分であの人から何かをもらった。それでいいのだ。