2015年1月31日土曜日

恩師論 (9)


 子安先輩の思い出は脱線気味だったが、出会いのメカニズムの一つは結局モデリングだね、という話だ。そしてもう一つが勇気づけである。数日前に紹介した岡村氏のエッセイにもあった。「君ならきっとできるよ」、と言われる。自身はないけれどやってみると出来るのである。そうすると背中を押してくれた先輩との出会いは貴重なものになる。 しかしこれは一歩間違うと無茶ブリになってしまう可能性もあるのだ。
 私も時々学生さんに「~をしてみたら?」と提案することがある。「~してくれる?」というトーンの時もある。場合によってはこちらの提案は学生にとっての命令に聞こえることもあるだろう。すると学生は「わかりました。」と言いながらも「これって無茶ブリじゃない?」と思うのかもしれない。本当にそうなのか? これは場合によるだろう。
ある仕事を学生さんにお願いする。それはその人にとっておそらく扱うことが可能だと考えている。これをしてもらえると自分は助かる。そしておそらく彼(女)にとってもその経験が勉強になるだろうと考えるのであれば、それは私にとっても学生にとってもいい体験になるだろう。Win-win というわけだ。ところが私が学生のキャパや都合を考えないでそれを頼んだとする。学生には無茶ブリ、完全に私の側の都合、場合によってはパワハラと認識するかもしれない。とすると恩師による「背中押し」は危険な賭け、エゴの押しつけにもなりうることになる。恩師、先輩の側の良識が問われるということか。
たまたま岡村氏の例が、ピアノが弾けない先生の話だった。その場合の背中押しはその先生にとっても都合がいいという事情があった。しかしたとえばコーチングとか、教育の場合には「~したらどう?」は理解を含まない、より教わる側にとっての利益を考えた指導やアドバイスとなるだろう。私たちは後輩、初心者の振る舞いや仕草を見ていて、ごく純粋に「ああ、~すればいいのに…」と感じることがある。余計なところに力が入っていたり、大事なことが抜け落ちたりするのを見るのはイライラするし、それを訂正することでスキルが向上するのを見るのは心地よい。だから家庭でも教育現場でも部活動でも、職場研修でも、フォーマルな形で、あるいはインフォーマルな形で、アドバイスや指導はありとあらゆる形で行われているだろう。人と人との会話をすべてモニターできたら、そのうちのかなりの部分が一方から他方に対するアドバイスや指導や提案の形をとっている可能性がある。
ところだそれらのアドバイスや指導の中には、全く見当はずれなものがある。それはアドバイスをする側にとっては簡単なことに思えることが、される側にとっては全くの至難だったりすることがしばしばあり、しかも前者にとってはその事情が全くくみ取れないからだ。人間はことごとく自分を尺度に考える傾向にある。朝は決まった時間に起きるということが少しも問題なく行われている大人にとっては、目覚ましを何度もかけても起きない息子や娘の苦労は分かりにくい。「どうして人間として当たり前のことが出来ないの?」という小言は、親の側の全くの無理解の表れとして子供に受け取られる可能性がある。だから先ほどの人と人との会話のうちのアドバイスの部分は、ほとんどが不発に終わっていることになる。それはそうだろう。人が大人しく他人のアドバイスを聞き入れて行動を改善できていれば、これほど平和なことはない。しかしアドバイスの大部分は一方的な押し付けの形をとるのである。
その中でたまたま言われた側の心に響くものがある。それに従ってみようという気持ちになる。それはおそらくは偶然の産物なのだろう。
ルイ・アームストロングが施設のブラスパンドでたまたま与えられたコルネットに出会う。そこから彼の人生が変わっていく。彼にトランペットを手渡した人は、彼にとっての恩師ということになろう。しかし彼は単にトランペットの要因が足りなかったから薦めただけかもしれない。
結局何が言いたいのか。出会いにおける背中押しも、かなり偶然の産物に近いということである。