2015年1月3日土曜日

最新の解離 (23)


ジャネの理論について、私がフロイトの心の図式に模して書いたのが次の図である。
 この図からわかるとおり、私は意識と下意識の間に少なくともフロイトの図式に描いたほどの明確な境界線を設けてはいない。なぜなら通常は下意識と意識は協調して活動しているからである。もちろん下意識にも深さがあり、深い部分は意識化されないが、浅い部分には過去のトラウマをになった記憶内容(ダイヤモンド型の部分)が存在し、時に浮上してくる。そしてその浮上のタイミングやパターンはきわめて恣意的で予想不可能な性質を帯びているのだ。


さてジャネはフロイトとは明らかに系譜が異なり、精神分析の生まれる以前に解離の理論を確立した人であった。他方の精神分析の世界では解離は非常に分が悪かったといえる。それはフロイトが解離という現象自体を信用せず、またジャネとのライバル意識から解離を抑圧の一種に過ぎないという、いわば解離現象を矮小化したような味方に固執してきたという歴史がある。その中で解離の理論を提唱した精神分析家としては、フェアバーン、ウィニコット、ハリー・スタック・サリバンの理論などが知られるが、最近では本書でも紹介するフィリップ・ブロンバーク、ドネル・スターンなどにより解離の概念を主軸にした精神分析理論が提唱されている。
 そのなかでサリバンはNot meという表現で解離された自己の在り方を表現し、理論化した。サリバンによれば、自己システムにおいては、不安により選択的不注意、解離、パラタキシカルな歪曲が生じる。このうち選択的不注意とは、「見るべきでない何かがそこにあるのを知っている」状態であるという。それに対して解離においては「目をそらしていることさえ知らない」状態である。すなわち解離が働いているときは、意識はその解離された心的な内容の存在すら感じ取れないということになる。これは無意識内容が何らかの形でほのめかされるというフロイトの図式とは異なるのだ。
彼の言うgood me, bad me, not me という概念化である。このうち良い自分は良い母親による報酬、悪い自分は悪い母親による不安傾向、自分でない自分は深刻な不安により生じるとした。最初の二つはおそらく多くの人が現実に体験しているであろう。自分という存在に対する意識が、いい自分、悪い自分という形でわかれるということは多くの人が体験する。行けている自分、「俺って、やれるじゃないか?」と思えるときのセルフイメージと、「全然だめだな」と思うときとではかなり自分に対して持っているイメージが異なる。
 このうち三番目のNot me は前二者とはかなり異質である。この自分でない自分の性質については、それが深刻な悪夢やS的な状態でしか直接体験できず、解離状態としてしか観察されないこと、すべての人が体験するが、統合失調症の場合は発達の過程でそれを頻繁に体験している。Not me は、いわばその時の自分があたかも別の世界に逃げ込んでいるような状態、苦痛や恐怖や屈辱のために心をマヒさせるような形でしか、その体験をやり過ごす事が出来ないような状況を意味する。このNot me は「深刻な悪夢や精神病的な状態でしか直接体験できず、解離状態としてしか観察されない」とサリバンは考えた。この時の体験は、それが深刻な苦痛が伴う為に決して学習されず、またより原始的な心性のレベル(プロトタキシック、パラタキシック)でしか体験されないと考えたのである。
 現在では、このサリバンのNot meの理論は、トラウマや解離の文脈で再評価されるようになってきている。精神医学、心理学の世界が人間が体験するトラウマとそれによる心の病理を再認識し、焦点付けするような気運になったのはここ30年ほどのことである。30年というと非常に長いかもしれないが、その中で精神医学的、精神分析な考え方が徐々に変革を迫られているという印象を受ける。1.で「患者の声を受け止めよ」というスローガンめいたことを書いた。脳画像上の変化が示すことは、心の専門家でさえも「気のせいではないか?」「そのように言うことで他人を操作しようとしているのではないか?」と勘繰ったような患者の証言が信じるに足るような根拠を備えていたということである。これは解離の理論についてもいえるのだ。Not me に由来する体験はしばしば荒唐無稽で、一見信憑性を欠く。心的苦痛を伴う体験を思い出せない、という解離性健忘における体験はその一つであろう。

いかにサリバンの心の図式を、同じくフロイトの図式にならって掲げてみよう。