2015年1月2日金曜日

最新の解離 (22)

 (13) 解離に基づく非力動的な精神分析理論

ジャネの示した数少ない図式の中で、症例イレーヌに出てくるものを紹介しよう。この図式のダイヤモンド型のものが彼女の諸症状であり、それが心のメインの部分(P)とは離れた形で示されていることが解離現象を表している。

現代的な脳科学の理解に基づき心の理論を考えた場合に浮かび上がってくるのが、解離の機制を中心に据えた精神分析理論となる。
 最初に本章の要約を述べておこう。脳の在り方はネットワーク的かつモジュール的である。無意識に生じるのは扁桃核や報酬系、そしてさまざまな外傷的な契機を介した様々な思考や願望やファンタジーの断片である。その無意識の在り方を概念化し、理解する際は、抑圧の機制よりは解離であり、非力動的な心の理論なのである。そしてそれに基づいた治療論を一言で表すならば、私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主として安全な環境を提供しつつ情緒的なかかわりを持つことである。
私がこれまでに示したような内容を踏まえて心/脳を眺めてみよう。脳とは途方もないキャパシティを備えた情報ネットワークである。そしてそれは情報処理を行うだけではなく、それに基づき判断をし、行動を起こすシステムである。単なる巨大なコンピューターではなく、それを内蔵しつつ活動をする器官なのだ。
 その運動体の最終的な目標は自己の生命を維持することと私たちはとらえがちである。ただしそれを凌駕する可能性があるのが生殖活動であるといえる。と言ってもそれはフロイト的な意味での性的欲動が自己保存本能に勝る、という意味ではない。リチャード・ドーキンスの言うように、生物の最終目標は自分の遺伝子を後世に伝えることであり、生命体は時としてわが身を滅ぼしても子孫を残すことを優先する。そしてそれを保証しているのが報酬系である。
 鮭が古巣の川の上流に向かって遡行するとき、彼らは淡々と泳いでいるのでははないだろう。川上に向かうことによる強烈な快ないしは熱狂に突き動かされているか、あるいは川下に留まることの苦痛や恐怖に駆られているかのどちらかである。そしてそこで出会う様々な敵との戦いに生きながらえるためのシステムが闘争逃避反応であり、それを支えるシステムがジョーセフ・ルドゥの描いた視床―皮質―扁桃核の経路である。これが同時に働いていることで、ボロボロになりながらも川上の浅瀬に到達し、生殖活動を行った後に死んでいく。鮭は「次に自分は何をすべきか?」などと考えることなく、ただ報酬系が導くままに生きているだけなのだ。そして報酬系が私たちに何を考えさせ、どのような行動に導くかは多分に偶発的で不可知的で、非力動的なのだ。
 ただし私たちは1970年代よりトラウマの精神病理に関する知見を得て、以上に述べた闘争―逃避にもう一つの解離的な反応、つまりフリージング反応や、トラウマの反復的な再現(フラッシュバック)験についての知識を有している。そしてそれがかつてフロイトが死の本能ととらえたものの本体であるという認識を持っているのである。私たちは危険を回避し、過去のトラウマによりその空想や行動を大きく規定されてもいる。そしてそのトラウマの体験は心の中に隔離され、ある意味では自律性を備えた部分、すなわち解離された部分を形成する。その意味では人がどのようなトラウマを体験しどのような解離部分を形成するかもまた偶発的で不可知的であり、非力動的と言わざるを得ない。
このように考えるとフロイトのように幼少時の性的欲動の意義を過大に想定する根拠を十分に与えているとは言えない。その意味では性愛性の持つ意味は重視しつつ、フロイトの性欲論や死の本能についての理論を大幅に修正し、その一部を棄却せざるを得ないのである。


離散的、非力動的な心の理解の提案

情報処理システムとしての脳の活動に関して言えば、その大半は無意識的に行われると言わざるを得ない。ジェフ・ホーキンスの著書「考える脳、考えるコンピューター」に詳しいが、情報処理の大半は、大脳皮質の下方の階層において大部分が意識化されることなく行われる。大脳皮質は常に予想を行っており、その予想に反した新規な出来事しか上層の意識レベルに上らせることがない。が大きな示唆を与えてくれる。それは意識化されるということが、脳が行っている予想にとって例外となるような事態しか意識化されない、というより下意識はそれ以外のことに忙殺されることで情報処理ができなくなると考えるべきであろう。いわば意識は中央処理システムで、端末からの異常ないしは新奇な情報のみを拾って決断を下しているようなものだ。しかしその決断さえも、かなり無意識レベルで行われているという見方を私は示した。中央処理システムではそれを承認、追認、ないし理由づけしているにすぎないといっていいであろう。その意味では無意識に圧倒的な意味を与えたフロイトの見方に近いことがわかる。(ただしその無意識は力動的ではなく、非力動的である、というのが私の主張である。)
フロイトの心の捉え方は、それを力動的な連続体と見なしていたということである。それは無意識の内容は抑圧されたものであり、それは症状や言い間違え、夢の顕在内容などを通して、つまり象徴化を通して意識化されるというものである。
 しかし脳科学的な情報を持つ私たちは、それとは異なる無意識の在り方を知っている。そこでの在り方は、心の活動はその主たる役割としての情報処理を含めて無意識的であり、意識は無意識からのアウトプットを受け取り、それを統合するという働きを主としてしていると考えられるのである。その在り方を私は非力動的な無意識の在り方として表現しているのである。

精神力動学の歴史でそのような捉え方をした代表として、ピエール・ジャネとハリースタック・サリバンを挙げたい。
ジャネはもちろん多くの人々がその名前や業績の概要をご存じであろう。彼の名を高めたのは、エレンベルガ―の「無意識の発見」であった。エレンベルガ―はその著書の中で、力動精神医学を打ち立てた人の中でジャネの名前を特にあげたのである。ジャネは人間の心を意識と下意識とにわけた。意識は統合と想像に向けられた活動であるのに対し、下意識 subconscience は過去を保存し、再現する活動である。通常はこの二つは独立しつつ協調しているが、現在を形作るのはあくまで前者である。統合と創造のほうが減弱している状態がヒステリーに相当し、それが「心理自動症 automatisme psychologique」である。