2014年11月13日木曜日

汎用性のある精神療法の方法論の構築 (3)


「面談」の特別バージョンとしての各種療法

私は現在幾種類も提唱されている精神療法の多くは、「面談」の中で現れる様々なプロセスの一つを拡大して扱うバージョンとしてとらえることが出来ると考える。たとえば認知療法であれば、「面談」の中で日常生活に現われる情緒的、認知的なプロセスを拡大して扱うバージョンとしてとらえる。行動療法なら、いくつかの行動のパターンについて論じ、それを試みるという可能性について特化することになる。また「面談」に軽い呼吸法や瞑想の導入を組み込んでいる臨床家の場合は、催眠やイメージ療法の導入部分をすでに行っているといえるかもしれない。
 このように考えると「面談」をきちんとできていれば、特殊な療法についてのトレーニングは必要がない、という極端な見方をする臨床家が出るかもしれない。しかしむしろ種々の精神療法のトレーニングの機会を持つことは基本要素としての「面談」をより豊かなものにする可能性があると考える。
 たとえば認知療法の訓練を受けて、自動思考の考えになじんだとする。All-or-nothing thinking 全か無かという考えCatastrophizingこれは大変だ、とすぐパニックになってしまうDisqualifying or discounting the positive(ポジティブなことに目をつぶる)Emotional reasoning(感情的に推論をするLabeling(レッテルを貼る)Magnificationminimization(過大/過小評価する)などなど。このような心の動きを患者の思考や行動の中にいち早く読み取ることは、「面談」にも生かせるだろう。また同じように精神分析における防衛機制を知っておくことは、同様の意味で患者の心の病理の在り方を理解するうえで有益かもしれない。
 このように考えると各種療法をフォーマルな形で行う用意のある臨床家とは、とはいざとなったらそれに移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら、つまりいつでもアクセルを踏むことができる用意を持ちながら、「面談」を行うことができる療法家ということになる。結局は各種療法の存在をどのように捉えるか、という問題は、汎用性のある精神療法をどのように定義し、トレーニングし、スーパービジョンしていくか、という大きな問題につながってくる。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。 
「汎用性のある精神療法」としての「面談」

このあたりで「面談」を「汎用性のある精神療法」と呼び変えて論じよう。私が通常の「面談」にこれまでかなり肩入れしてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法を論じる上での原型となると考えたからであった。「汎用性のある精神療法」とはいわばジェネリックな精神療法、と言えるだろう。私は各種療法のトレーニングを経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それがこの小論の一つの結論と言える。「汎用性のある精神療法」はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的なテクニックも、行動療法的なテクニックも、EMDRも入ってこざるを得ないということだ。
  「汎用性のある精神療法」についてもう少し述べたい。私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。しかしいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。試みに少し用いてみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。それにより場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、EMDRも、箱庭療法も候補としては入れるべきであろう。そしてそこに認知療法も行動療法も当然加わらなくてはならない。
 精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。認知療法はとかく精神分析からは敬遠される、という風に。しかしこれからの精神療法家はむしろ両方を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないからである。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。