2014年11月9日日曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(1)

今日は、晴れなのか雨なのかわからない、変な天気だ
 
脳科学と精神分析と題したこの講演で私が主張したいのは4つのテーマである。

1.脳の活動の可視化と心の理解の深まり
2.ハードウェアとしての脳の理解と心の理解。フロイト説からトノー二説まで。
3.セントラルストーリーとしての発達―愛着―右脳―解離路線。
4.今後の精神分析に向けて


1.脳の活動の可視化と心の理解の深まり

フロイトの時代には、心を可視化するという試みはほとんど不可能であったといえる。脳の機能にある種の局在があるであろうことは、すでにフロイトの時代にはわかっていたはずである。フランスのポール・ブローカによる言語野の発見は1860年代のことであった。フロイトはそのブローカの業績に懐疑的であったとされるが、そのフロイト自身は、脳や中枢神経が、神経細胞と神経線維により構成されていることを発見した。若きフロイトは1878年にはヤツメウナギの脊髄神経細胞の研究を行い、18791881年にはザリガニの神経細胞を研究して、ニューロンの発見者の一人として貢献しているのである。そしてそれらを構成要素の一部とした中枢神経系を考え、それをもとに心の理論を打ち立てることを試みたのが、「科学的心理学草稿」(1895)であったことはよく知られる。
フロイト以降の脳科学の発展としてはなんといっても脳波の発見が挙げられるべきであろう。ドイツの精神科医ハンス・ベルガーによるヒトでの脳波の存在が報告されたのは1929年であった。まだフロイトが存命中ということになる。これにより脳の活動は非常に微弱な電気の活動として計測できることが明らかになった。程なくして癲癇発作は、脳で起きている高電圧の同期化した電気的な活動であることが脳波により判明してからは、癲癇が中枢神経系の疾病であるという認識が深まった。それまでヒステリーの一部と考えられ、詐病と見なされたり、差別や揶揄に対象となったりしていた患者の一部は、治療の対象であるとみなされるようになったのである。
 もしフロイトが生きているうちにこの脳波の発見が起きたらどのような反応をしていたであろう。おそらく彼が抱いていたリビドー論の一つの傍証と考えたのではなかっただろうか?フロイトは「科学的心理学草稿」では、神経細胞をφとψという二種類に分け、それらの間をある種の「量」が行き来する様子を描いている。それをフロイトは、ある種の性的な興奮を伝える分泌物やエネルギー(リビドー)と考え、その動きを備給、充満、疎通などの表現を用いて論じた。しかしその実態を掴みあぐねていたことは、「草稿」が未完に終わっていることからもわかる。もしそれがある種の電気的な信号の伝達であるということを知らされても、フロイトは全く異存はなかったであろうと私は想像する。
さてもちろん脳機能の可視化は脳波にとどまらない。おそらくもっと画期的な発見は1970年代に発表されたCTスキャンであり、PETであり、MRIである。それらがさらに発展を遂げたことにより、2000年前後からCTMRIreal time CT, real time functional MRI)の画像がリアルタイムで得られ、まさに脳の中で何が起きているかを克明に知ることが出来る時代になっている。フロイトの時代には考えられなかった脳科学の知識は、神経細胞を流れるエネルギーにはいくつかの種類があり、それが脳でさまざまな働きをしているということである。脳内を流れる神経回路には、その伝染にいくつかの種類があるといってもいい。いわば脳の回路は赤や青に色づけされているというイメージでもいいだろう。
 さてこれ以上脳の活動の可視化がどの程度進んでいるかについて論じるのは私の手に余る。しかし私がこれにより伝えたかったのは次の事実である。
脳の活動の可視化により、患者の訴える主観的な症状が実際の、ないしは現実の症状として認識され、それが偽りや誇張を伴った訴えであるという捉え方への反省が促されたということである。ここで数多くある例の中から二つを取り出したい。
ひとつは統合失調症に見られる幻覚の訴えである。私たちはともすると幻覚体験を幻のようなもの、心が作り出したものであり、その訴えにあまり信憑性を見出さない傾向にある。しかし幻聴の際、後頭葉の一次聴覚野の脳波が検出されたり血流量が増加しているという研究がある。(Sperlingの研究など)。すなわち脳の活動のレベルでは、幻聴の体験を持つ人の脳の活動と実際のことや声を聴いている一般人の脳の活動が基本的に同じものであることがわかる。すると幻聴という体験そのものはきわめて正常な主観的体験と言えるのである。幻聴が正常であるという言い方はおかしいが、彼らが勝手に想像して作り上げたものではないということだ。(ちなみに通常人が音楽をイメージする場合には、第3次聴覚野が活性化されるという。)
もう一つの例は、いわゆるプラセボ効果に関するものである。プラセボを投与することで痛みが取れるという現象が生じた場合、私たちはそれもまたただの主観的な体験であり、「気のせい」にすぎないと考えるかもしれない。しかしプラセボ効果が生じている脳においては、鎮痛薬が生じているのと同様の活動がみられることがわかっている。
プラセボ効果やノセボ効果が脳に与える影響は、fMRIによりかなり詳しく調べられている。詳しい場所は省略するが、皮質の部位(DLPFC,ACC)、皮質下の部位(扁桃体、脳下垂体、脳幹)、脊髄のレベルなどで変化がみられる。それらの部位の活動はオピオイド拮抗薬のナロキソンで低下するということは、オピオイド系の脳内物質が関与していることが示されている。その中でも特にrACCの活動の亢進と痛みの抑制が関係しているとされる。
これらの研究は、いわゆる「気のせいで痛みが和らぐ(あるいは余計痛く感じる)」という時の「気のせい」の意味を一から問い直すことになるのだ。そしてそれが示唆するのは「患者さんの主張をそのまま受け止めよ」ということである。もちろんそれは「患者さんの訴えをうのみにせよ」ということではない。そうではなく「患者さんの訴えの背後にある意味を追及せよ」という姿勢をいったん控えるべきであるということだ。