2014年10月20日月曜日

脳科学と精神分析(推敲)(9)

     無意識は心の本質部分か? 予想するシステムとしての脳、記憶する脳
フロイトが考えた意識と無意識のあり方の中でひとつ付け加えるべき点がある。フロイトが提言した、一番本質的な心の働きは無意識である、という考え方は、結局は重要な発見、というよりは予見であったといえるだろう。というのも心のあり方はやはり動考えても無意識がその大部分を占めているからである。
最近の大脳皮質の研究については、ジェフ・ホーキンスの「考える脳、考えるコンピューター」が大きな示唆を与えてくれる。彼の考えはこうだ。大脳皮質を観察すると、そこには多くのインプットと、そこからのアウトプットの経路が見られる。それは第4層から入り、第5層から出る、という形をとり、それにより成立する近接、および遠隔地の大脳皮質との情報の行き来は原則的に双方向性である。そこで行われるのは、いわばバックグラウンドでの情報処理であり、いわばジクソーパズルの個別部分の組み合わせである。まあ、縁の部分の構築、と考えればいいだろう。いまだ本質的な画像は浮かんでこない。そこで統合された情報が徐々に上位レベルの皮質に移行していくのであるが、そこで重要なのは、その情報処理が常に予想を行っているのであり、それと大きく異なる現実に直面しない限りは、上位に特別な信号を送ることはないのだ。
たとえば自宅に戻り、いつもと部屋の様子が同じならば、その視覚刺激は上位には伝わらない。いや、伝わるとしても「いつもの部屋。以上。」程度なのである。それは弱い情報伝達であり、意識にとまることもないだろう。ところが机に見慣れない封筒が置かれていると、それは予想と異なった部分であり、直ちに上位に送られる。「デスクの上に封筒発見!」しかし注意してみると、時々来る水道の請求書であることがわかり、「訂正、ただの請求書だった。以上。」で終わる。これもこのままでは忘れ去られる運命にある。ところがその封筒が見たことのないものであり、中に妻からの絶縁状が入っていたりすると、それこそそれは一生忘れられない記憶として記銘される。
 ここで意識と無意識の働きという文脈で考えるならば、このように心の働きの大部分は無意識で行われ、しかしそれは常なる予想と現実との差異を査定するという作業であることがわかる。そしてそこで異常発見となると意識の登場になる。その意味でやはり心の働きには無意識への比重が圧倒的に大きい。ただしフロイト的な意味とはかなり異なる。フロイトの場合は「無意識に欲動が詰まっていて、それが人を突き動かす」であった。脳科学的には、「情報処理は大部分が無意識的で、統合の際、あるいは予測不可能な事態が生じたときが、意識の出番である。」なんか、ずいぶん違うな。