2014年9月25日木曜日

治療者の自己開示(10)

 実は自己開示について10日ほど書いていて初めて、これだ!という実感に行き着いた。これは治療者側の自己愛の問題と非常に深く結びついているのである。ということで以下の文章が生まれた。まさに治療者と患者は、「持ちつ持たれつ」というところがあるのだ。

そこでこのAの部分、つまり「積極的な自己開示」の由来を考えてみよう。それは健全な自己愛や自己主張欲求、患者のためにある情報を伝えたい、出来れば自分自身の知識や体験談を伝達したいという気持ちと、自己顕示、露悪的な欲求が複雑に絡み合っていることがわかる。私は従来の匿名性の原則をかたくなに守るよりは、そこに自己開示の効用をも考える立場ではあるが、実際には非常に広範に、時には無秩序な形で治療者の自己開示が生じていることを把握している。自己愛的な治療者が患者に自分の自慢話や体験談を話すことを一種の生きがいにしている場合も少なくないのである。ここに生じているのは、治療者の自己顕示欲が、「これを伝えることは患者のためになるのだ」という口実とともに発揮される可能性であり、これもそのネガティブな治療効果を決して否定できないのだ。
 私たちが自分の体験を語りたい、という欲求は計り知れない。ツイッターのこれほどまでの普及がそれを物語っているではないか。それとブログもそうか。他方ではもちろん恥の気持ちがある。恥とはすなわち羞恥心と恥辱。治療者の方にも自分に関して開示するには恥ずかしいこと、恥なことがある。治療者の自己開示、特にAはその綱引きのバランスの上に起きるわけであるが、その上に精神分析においては匿名性の原則が乗っかることになる。
これについてはすでに書いたが、少し復習するなら、フロイトは純粋に無意識内容を解釈するのが分析であり、それをそれ以外のものにより汚してはならないとした。汚すものは示唆と呼ばれ、そこに自己開示などの余計なものも含まれる。自己開示は特に自由な転移の進展を阻害するものとした。(3行に収まるんだ!) このフロイトの議論はもっぱらAについて言っていることになるだろう。A自身があってはならないと。ただしBまで阻止しようとはしなかった。だってフロイトはマスクをして、一切何も自分の素性を明かさず治療をしていたわけではないからだ。そこまで厳密ではなかったということか。(実際のフロイトの臨床はそれどころかかなりおしゃべりで、それにはかなり守秘義務に抵触するものもあったとさえる。)
このフロイトの姿勢に対する現代的な批判としては、Aそのものが必ずしも非治療的と言えないであろうという見方。そうしてもう一つは匿名性という原則そのものがあまり意味を持たず、なぜならそれはBを防ぎようがないから、という議論。「解釈だってある意味では示唆、自己開示だ!」という主張はこれにあたるだろう。
 私の姿勢はどうだろうか。次のようにまとめてみることが出来るかもしれない。

結局自己開示をするべきか、しないべきかは決められない。Aを用いるかどうかは、A1もA2も治療的ともなるし、非治療的ともなる。非治療的となる可能性があるのは、それが必然的にB2を伴う場合。すなわち無自覚的に、無意識的に余計なものを表現する可能性が同時にあるからである。そこには治療者の自己愛的な願望が一番大きな問題を含んでいるのではないか。