一見普通の(ANP的な)子供人格とのかかわり
トラウマを負ったBちゃんのような子供人格とは別に、そうでない子供人格、遊びを求めて出てくるような子供人格とのかかわりは、再固定化とどのような関係があるのであろうか?
ここでバンデアハート先生たちによる「構造的解離理論」に基づけば、出現した時に一見普通にふるまう人格は「ANP的」、つまり Apparently Normal Part (一見正常な(人格)部分)として分類されるのであるが、ここではどのように呼ぶかはさほど重要ではない。ともかくもこの一見遊び盛りの子供人格Bちゃんについて考えてみる。すでにこのブログでは、「子供の人格をどのように扱うのか?」というテーマで何度もこの問題について論じたわけであるが、その一つの扱い方は「遊ぶ」ということであった。これがおそらく妥当である一つの理由は、子供の成長ということにある。Bちゃんの主人格は、おそらく養育上あまり「遊べる」環境になかったことは多くの患者の伝えるところから推察される。実際に「遊ぶ」かかわりが続くにしたがって、ケースによっては言語能力が発達し、書く字も達者になり、遊びもより成熟したものへと変っていき、「遊びたい」という願望も軽減していくことはよくある。
ここでバンデアハート先生たちによる「構造的解離理論」に基づけば、出現した時に一見普通にふるまう人格は「ANP的」、つまり Apparently Normal Part (一見正常な(人格)部分)として分類されるのであるが、ここではどのように呼ぶかはさほど重要ではない。ともかくもこの一見遊び盛りの子供人格Bちゃんについて考えてみる。すでにこのブログでは、「子供の人格をどのように扱うのか?」というテーマで何度もこの問題について論じたわけであるが、その一つの扱い方は「遊ぶ」ということであった。これがおそらく妥当である一つの理由は、子供の成長ということにある。Bちゃんの主人格は、おそらく養育上あまり「遊べる」環境になかったことは多くの患者の伝えるところから推察される。実際に「遊ぶ」かかわりが続くにしたがって、ケースによっては言語能力が発達し、書く字も達者になり、遊びもより成熟したものへと変っていき、「遊びたい」という願望も軽減していくことはよくある。
これとTRPとはどう関係するのだろうか?おそらく「遊んでいいんだ!」「自分らしく自由に振舞っても怒られないんだ!」という体験が再固定化に必要なミスマッチなのだろうと私は考える。
あるDIDの方から、「小さいころ幼稚園で普通に遊べても、家に帰ると決して同じような振る舞いが出来ないし、そもそもそのような発想が湧かなかったということに気がついた」というお話を聞いた。あるいは「小さいころは女の子であるにもかかわらず、決して人形やおままごとの遊びをさせてもらえず、人形も買ってもらえず、常に男の子として振舞うことを強制された」という方の話も聞いた。親といることである特殊な振る舞いしか許されず、それ以外を常に抑制しなくてはならないという家庭環境は決して少なくない。するとそれが許されるような体験はおおむねミスマッチとして体験される可能性があるのである。そしてそれが解離の患者さんの場合に特別に治療的な意味を持つのであろう。
子供人格においてなぜ遊ぶことが治療的かについて、明確な答え方はできない。しかしひとつ臨床的な印象を述べるならば、子供人格の「気が済む」のであり、「思い残すことなく大人になれる」という感覚が生まれるのではないか、ということだ。解離性障害の治療においてしばしば問題となる、この「思い残し」とは何か?そこにこだわりがあるために、あたかも浮かばれない霊のように居続ける子供の人格。一つ言えるのは、それが子供の人格の、ある表現されることのなかった部分に関連しているであろうということだ。「お母さんに甘えたい」「わがままを言いたい」「お人形と遊びたい」という願望は、おそらく子供時代には本人にも意識されることなく、したがって表現されることもなかった。多くの子供の場合、甘えたくても甘えられない事情があれば、その気持ちは抑圧という形をとることで処理をされるのであろう。しかしそれが時には別の、解離という形をとって処理される場合もある。そしてその処理のされ方が、ちょうど神経回路による記憶の改編の説明の際に論じた、「回路がつながっていない」状態を形成する。つまり「わがままを言いたい」は通常の子供が行う思考活動や記憶の形成とは隔離された形で残っていく。「人形をねだる」という発想はそもそも日常生活における母親とのかかわりで、わいてこない。そこに治療者が表れて「遊んでもいいんだよ」と伝えることは、ミスマッチであると同時に通常の思考過程とその思考や願望を「つなげる」意味を持つのである。
あるDIDの方から、「小さいころ幼稚園で普通に遊べても、家に帰ると決して同じような振る舞いが出来ないし、そもそもそのような発想が湧かなかったということに気がついた」というお話を聞いた。あるいは「小さいころは女の子であるにもかかわらず、決して人形やおままごとの遊びをさせてもらえず、人形も買ってもらえず、常に男の子として振舞うことを強制された」という方の話も聞いた。親といることである特殊な振る舞いしか許されず、それ以外を常に抑制しなくてはならないという家庭環境は決して少なくない。するとそれが許されるような体験はおおむねミスマッチとして体験される可能性があるのである。そしてそれが解離の患者さんの場合に特別に治療的な意味を持つのであろう。
子供人格においてなぜ遊ぶことが治療的かについて、明確な答え方はできない。しかしひとつ臨床的な印象を述べるならば、子供人格の「気が済む」のであり、「思い残すことなく大人になれる」という感覚が生まれるのではないか、ということだ。解離性障害の治療においてしばしば問題となる、この「思い残し」とは何か?そこにこだわりがあるために、あたかも浮かばれない霊のように居続ける子供の人格。一つ言えるのは、それが子供の人格の、ある表現されることのなかった部分に関連しているであろうということだ。「お母さんに甘えたい」「わがままを言いたい」「お人形と遊びたい」という願望は、おそらく子供時代には本人にも意識されることなく、したがって表現されることもなかった。多くの子供の場合、甘えたくても甘えられない事情があれば、その気持ちは抑圧という形をとることで処理をされるのであろう。しかしそれが時には別の、解離という形をとって処理される場合もある。そしてその処理のされ方が、ちょうど神経回路による記憶の改編の説明の際に論じた、「回路がつながっていない」状態を形成する。つまり「わがままを言いたい」は通常の子供が行う思考活動や記憶の形成とは隔離された形で残っていく。「人形をねだる」という発想はそもそも日常生活における母親とのかかわりで、わいてこない。そこに治療者が表れて「遊んでもいいんだよ」と伝えることは、ミスマッチであると同時に通常の思考過程とその思考や願望を「つなげる」意味を持つのである。