2014年8月26日火曜日

解離と脳科学(推敲)(1)

しかしなぜハイデルベルグの旅について書くのか。一つにはこれがいかにも私らしい、強引な、あるいはsingle-minded な意図に基づいた旅だったからだ。それにこの話は私のクライエントとも家族とも関係ない。それになんといってもはるか昔の出来事だ。そしてこれも重要なのだが、自慢話ではないという点も重要だ。(むしろ逆である)
その頃(1990年代の半ば)、私は精神科の専門医試験に苦しんでいることは書いた。この試験は筆記試験と口頭試験に分かれる。精神科のレジデントトレーニング(医学部卒業後4年間。外国人医師である私は、渡米してからまずこの一年目に合流したわけである) が終わると次の年に、この筆記試験を受ける。合格すると口頭試験を受ける。これに受かるとめでたく精神科専門医、となる。私の所属していたメニンガークリニックは言っちゃなんだが、精神科医のトレーニング期間としては「名門」なので、みな優秀な連中ばかりだった。筆記試験、口頭試験とすいすいと合格する。両方とも合格率は6割くらい。だから一回で両方とも突破するのは34割ということだが、大半のクラスメート(つまりレジデントトレーニングの同期生)は受かってしまった。私も筆記試験は一回で突破できた。問題は口頭試問である。 この口頭試験について少し説明する。これは実際の患者を前に30分の診断面接をして、その所見をまとめて口頭で報告する、というものだが、やたらとキンチョーする場面である。なぜなら試験官が患者とインタビューする私の一挙手一投足をじっと見つめているからだ。30分の面接が終わると患者が退出し、私は23分の時間をもらって内容をまとめ、10分くらいで所見をまとめる。来談経緯、主訴、現病歴、既往症、社会生活歴、精神症状検査、診断的理解と根拠、除外診断、治療方針、と一気にとうとうと述べなくてはならない。そのあと試験官からの質問に答える。これらすべてに30分かけるので、一時間で試験が一通り終わるというプロセスだ。人によっては精神科医のキャリアーの中で最もストレスフルな体験といことになる。
さてこの口頭試問は3回まで受けられる。口頭試問はアメリカの各地で年に34回ほど行われているため、そのために仕事を休み、受験料や旅費を支払うなど、大変な出費である。しかも口頭試問に3回失敗すると、最も過酷な運命が待っている。もう一度筆記試験を受け直さなくてはならないのだ。筆記試験のために詰め込んだ勉強のおさらいをし、再び3回の口頭試問を受けられる権利を得るために試験場に赴くのである。
私のアメリカ滞在の17年のうち少なくとも10年は、口頭試問にいかに合格し、専門医としての資格を取るかに頭を悩ませていたのだが、実はここに興味深い事実がある。専門医に合格して何が特典になるかというと、実はあまりないのである。せいぜい専門医の合格証をオフィスに飾るくらいだろうか?専門医でなくても普通に薬の処方は出来るし、患者さんは自分の精神科医が専門医の資格を持っているかどうかなど全然気にしない(というかそういう資格があるかも知らない)のである。それなのに、どうして私は10年間も血のにじむ思いをして奮闘したのだろうか?ワカラナイ(つづく)



 ということで解離の話だ。解離の治療論は、脳科学的な情報を持つことでどのように変わるのであろうか?これは臨床家にとっても重要な問題である。私は脳を視座に取り込む精神医学の臨床家であるという立場と、こころを扱う心理士という立場の両方を常に考えているが、そこではハードウェアとしての脳の知見が日常臨床にどのような影響を及ぼすかに常に興味がある。そこでこの問題について解説を加えたいが、それはもちろん私自身が脳の研究を行うということではない。ふつうの人間には研究と臨床の両方に取り組むには時間が足りない。それに私よりはるかに能力と熱意と時間とを持つ多くの研究者による知見は続々と得られている。私にできるのは、優れた脳の研究者を導き手にしてそれを学び、一般の臨床家に伝えることである。
 私が現在その導き手として仰ぎ見る何人かの研究者の一人として、アラン・ショアAllan Schore博士がいる。実は彼は、研究と臨床の両方を行うことは普通はできない、といった先ほどの言葉の例外である。彼はよほど「ふつう」でない力を持っていると考えざるを得ない。
前もこのブログで読んだことがあるが、大変な碩学である。彼は脳と臨床を結び付けて論じるという活動をたいへん精力的に行っている。彼は右脳の発達と解離の問題について非常に啓蒙的な著作を表している。本稿は基本的に彼の論文Allan Schore: Attachment trauma and the developing right brain: origins of pathological dissociation In D book, 107~140 を手掛かりに、この脳と解離という問題について探っていく。
解離という心の働きを根本的に理解するためには、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならない。すなわち解離性障害とは、それが基本的には愛着トラウマ(同論文)による障害のひとつ理解されることを常に念頭に置くべきなのである。
ただし解離は、愛着の直接的な影響と決めつけるわけにはいかない。解離はある意味では二次的な反応というのだ。母親による情緒的な調節を行えないと交感神経が興奮した状態が引き押される。すると心臓の鼓動や血圧が更新し、発汗が起き、一種の興奮状態が訪れる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。するとむしろ鼓動は低下し、活動は低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時とくに興奮しているのが背側迷走神経のほうだ。(迷走神経を腹側、背側に分けて考えるのは最近の理論である。)解離は生理学的にはこのような状態として理解できるというのである。
そしてショア先生はこの状態と、いわゆるタイプDの愛着との関連に転じる。
タイプDの愛着とは、メアリー・エインスウォースの愛着の研究のあとを継いだもう一人のメアリー(メイン)の業績だ。ここら辺いいかな。他人が侵入するといういわゆるストレンジシチュエーションで、ストレスにさらされた子供が示す反応についての分類だが、タイプDのこともは親にしがみついたり、親に怒ったりというわかりやすいパターンを示さず、混乱してしまうのだ。ショアによれば、タイプDの特徴である混乱disorganization と失見当は、解離と同義だという。これは虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。
わかりやすく言えば、このパターンを示す子供の親は虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に素直によっていけない。だから親に向かって後ずさったり(親に向かっていくのではなく)、親とも他人とも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるという。

このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与える。