2014年8月13日水曜日

子供の人格の扱い方(推敲)5


子供人格の成長ということ

 子供の人格と出会い、かかわる事のひとつの目標は、その子供人格の成長である。しかしこう言うと誤解を招くかもしれない。子供人格は文字通り「成長する」というわけでもないであろうし、何しろ実際に存在する子供でもないのだ。またメタファーとしての「成長」に限って考えたとしても、それを期待できない子供人格もいる。またやんちゃな子供の場合、周囲は成長するより先に「寝て」もらいたいと願うだろう。それでも当面の治療目標といえるのは、子供の人格が出現している限りは、それがより自律的になり、節度を持つようになるという意味での成長を果たすということである。治療者やBさんがAちゃんと話し合うことで、Aちゃんの心境に変化が生じ、「Aさんのためには~をしてはだめなんだ」と考えられるようになることを期待するわけである。
 ただしここにも悩ましい問題がある。Aちゃんは必ずしも主人格Aさんのために自分を律するべきだと考える保障はない。解離している人格部分が互いに利害を異にすることは、しばしば臨床上体験される。むしろAちゃんはAさんのために犠牲になるようなことは全く望まない可能性すらある。私の経験では子供の人格の多くは主人格の「お姉さん」(そのように呼ぶことが多い)に対して一定の敬意を払う傾向にあるが、例外も多々あるようである。
 さて以上のことわり書きを前提とした上で言えば、子供人格は一般には成長する傾向にあるようである。最初は言葉もおぼつかなかった子供人格が、やがてしっかりとして話し方になり、書く文字も「大人びて」いくというケースを見ることは多い。一般的に言えることは、その子供人格が比較的保護的なパートナーや、支持的な治療者との間で瀕回に登場するうちにそれが生じていくという印象を受ける。子供の人格が出てきた際に、私は名前と年齢を聞くことが多いが、実際に語る年齢が上がっていくことが臨床上確かめられることもある。

子供人格の成長がどのような意味で望ましいかは、あえて述べるまでもないであろう。成長により人格はそれが持っていた可能性のあるさまざまなトラウマを克服し、言葉に直すことが出来る可能性がある。先に子供の人格の出現はある意味でフラッシュバックである、と述べたが、たとえ子供人格が、遊び専門の役柄のように見えても、それは遊び足りないという意味でのトラウマを負った子どもの頃を表現しているという理解がおおむね正しいだろう。(もちろんこのような目的論的な理解には限界があるということは常に認識しておかなくてはらないが。) 
子どもの人格が「成長」するということは、その子どもが成長を促進するような、つまりは安全でサポーティブでかつ適度の刺激に満ちた環境であることを示していると言えるだろう。そうでないとその子どもの人格はその人格が成立した時点、多くはトラウマの起きた時点に留まっていることになる。フラッシュバックとはいわば固定して自動的に再生されて、そこに創造性が介入しないような精神活動である。フラッシュバックが繰り返されるということは、精神が凍結されているかのように成長することなくそこにとどまったままの状態であると考えられるのである。
こどの人格の成長の話をするとしばしば患者の家族から次のような質問を受ける。「ということは、子ども人格はどんどん成長して行って、やがて主人格のような大人になるんですね。」これに対して私はこう答えている。「理屈ではそうかもしれませんね。でも大体そのうち姿を消してしまうことが多いようです。」実際に子どもの人格が思春期を経て成人するプロセスを私は終えたことがないが、それは私の臨床経験が不足しているせいかもしれない。しかし印象としては、子どもの人格はある程度年を重ねるうちに、その役割を終えて奥で休んでしまうようである。

それでは子ども人格をどのように成長させるかについては、そこに特別な技法はないのであろう。それは子育てに特に一定のテクニックがないというのと一緒である。治療者に十分な感受性や配慮があれば、あとは子ども人格に遊びを通して自己表現をする機会を持ってもらうということで十分である。子ども人格が言語表現が不十分であるだけ、非言語的な手法、つまりは箱庭、描画、粘土などを主体としたプレイセラピーが用いられることになろう。その過程で決まったパターンが出現するとしたら、その子ども人格はそれにより何らかの過去の体験を再現し、表現することで乗り越えようとしている可能性が高いと考えるわけである。治療者は子どもの人格が安心して出て来てプレイセラピーにより自己表現をするというレベルにまで導くということで、仕事の半分は終わっているのである。繰り返すが、そこに特別な治療技法、テクニックが必要というわけではない。