2014年7月30日水曜日

解離とTRP (推敲) 1

佐世保の事件。もちろんさまざまなことが関与している可能性があるが、やはり器質的、つまり脳の問題が大きいのだろう。他者の痛みを感じ取る仕組みに問題があり、これはおそらく教育の問題とは無関係。「学校は何をしていたのか?」「10年前の教訓はどうなったのか?」も、おそらくどれもピントはずれ。「どうして佐世保ばかり・・・」というのもおそらく偶然。そのような欠陥がある人がいくつかの傷つき(自分の痛みはもちろん当人にも普通にわかる)の結果起きてしまった事件。病気と言えば病気だが、心情的には「加害者もまた病気の犠牲者」と考えるわけにはいかないジレンマがある。もちろん社会復帰には反対。(10年前の加害者は社会復帰をした、と聞くが…。)

ここからしばらく解離とTRPの関係について考えたい。そもそもこのブログは解離性障害に向けられたものであり、再固定化やTRPについてこれまで長々と考察してきたのは、それが解離の治療に役立てる事が出来るかどうかについて考えているからだ。
 記憶の改編や再固定化について論じた後に解離性障害について考えると、改めてその在り方の不思議さを感じる。ABという、互いに健忘障壁のある人格を考え、それに相当する神経ネットワークABを考えてみる。常にこの二つはその人の中で頻繁に興奮しているはずなのに、この二つがつながらず、共鳴しないのだ! あたかもつながる機会がありながらわざとつながろうとしない、という印象を受けるのである。
 このABの疎通性の欠如はおそらくA,Bの間にシナプスの形成が行われていないという状況とはおそらく違うと私は考える。Aが興奮しているとき、Bは抑制される、という機制がない限り、人格間のスイッチングは起きないのではないかと思う。そう、思考ないし記憶の神経ネットワーク間のつながりは、両者を結ぶ神経線維があるかないか、だけでなくそれが興奮系か抑制系か、という問題も含む、実に複雑な話なのである。以上を前置きとして・・・・。
交代人格との出会いはトラウマの再演でもある

交代人格との出会いは、いつでも外傷記憶を扱うことというニュアンスを持つことは確認しておきたい。それはその子供人格がいつもおびえ、泣き叫ぶという形で出てくるような場合にはなおさらである。その際はトラウマのフラッシュバックと似た現象としてとらえることができる。ただし子供人格の出現は、フラッシュバックより一つないし二つほど「次元が高い」現象と理解することが出来る。PTSDにおけるフラッシュバックがある種のトラウマの時のシーンの二次元レベルでの、静止画的な再現とすると、子供人格の出現はそれが継時的な動画のようであり、その時の自分が舞い戻っているという、より複合的な現象だからである。またこのことは、PTSDのフラッシュバックも一種の人格交代現象に類似する、という見方を促すことにもなるであろう。このことはいわゆる構造的解離理論の第1次解離という概念が含意していることでもある。(この理論では、PTSDもやはり解離、なのである。)
 ともかくも子供人格がトラウマを抱えている場合、そのトラウマのシーンはいつもきまっていてそれを反復するという印象を与える。ファンタジー上のいくらかの加工はともなっていても、あたかも同じシーンを何度も繰り返すかのようである。
 ただし子供の人格にはとても無邪気で創造的でクリエイティブな振る舞いを示すものもある。一見明白なトラウマを抱えているわけではなく、ただ遊ぶことを目的に出てくるように見える子供たち。臨床上はこちらに出会うことの方がむしろ多い。彼らの目的は何であろうか?おそらくこちらは異なる由来を持つ可能性がある。前者がトラウマを抱えてそのフラッシュバックという形で出現するとすれば、後者はむしろ愛着障害に由来するのではないか。そしてその意味ではトラウマ由来といって言えないことはない。