昨日こんな夢を見た。気象庁の偉い方々が話し合っている。
「まあ、そろそろいいんじゃないですか。」「数日前から天気図に梅雨前線は消えてますしね。」「時期的にもそろそろ、ですからね。」「何しろ近畿まで出しちゃいましたからね。」「でもまた気圧配置が変わるかもしれませんよ。関東甲信越は、もう2,3日待ちませんか?」「あなたは去年もそんなことを言っていましたよね。モドリヅユ。困ったときはそれでいいじゃないですか…。ものはいいようですよ。」「しかし毎年相変わらず全然科学的な根拠がないですね。梅雨明け宣言って。」「国民もうすうすそれには気がついでいますよ。でも誰かに宣言してほしいんです。するとしたら私たちしかいないでしょう。」「そうですね。『今でしょ!』」
記憶の改編や再固定化について改めて考えてみる
「まあ、そろそろいいんじゃないですか。」「数日前から天気図に梅雨前線は消えてますしね。」「時期的にもそろそろ、ですからね。」「何しろ近畿まで出しちゃいましたからね。」「でもまた気圧配置が変わるかもしれませんよ。関東甲信越は、もう2,3日待ちませんか?」「あなたは去年もそんなことを言っていましたよね。モドリヅユ。困ったときはそれでいいじゃないですか…。ものはいいようですよ。」「しかし毎年相変わらず全然科学的な根拠がないですね。梅雨明け宣言って。」「国民もうすうすそれには気がついでいますよ。でも誰かに宣言してほしいんです。するとしたら私たちしかいないでしょう。」「そうですね。『今でしょ!』」
記憶の改編や再固定化について改めて考えてみる
以上で、本書(Bruce Eckerら著、Unlocking the Emotional Brain.
Routledge; 2012.)の少し長い紹介は終わりである。これをもう少し私自身にとって用いることが可能と思われるような手法として整えることを試みたい。
まず記憶の再固定化ということについて、改めて考えてみるが、まず強調しておきたいことがある。それは記憶が改編されるプロセスは、紹介した Coherence Therapy のようなある特殊な治療状況でないと生じないのではない、ということである。記憶の改編自体は日常生活でも起きている可能性があるだけでなく、私たちはその原理をおそらくは知らず知らずに応用しながら、つらい体験を乗り切っているのである。(ちなみにここで「記憶の改編」、という言い方をして、「再固定化」と限定していないのは、これまでの例で見た再固定化とは、ある程度長期的に保存されている記憶についてのみ扱っているからである。まだ新しい記憶が以下のような例で痛みを減ずるときは、再固定化とは異なるプロセスが生じている可能性があり、ここではそれに対して記憶の改再編、という言い方をしておく。)
ある苦痛な体験をした後、私たちは多くの場合、それを誰かに話したくなる。胸の内を誰かに話して、すっきりしたいと思う。その時は、「この話をあの人に聞いてもらえれば、きっとすっきりするに違いない」という予想を立てている。おそらく過去にも似た体験があり、その人に話すことで苦しみがある程度は解消するということが学習されているのだろう。時にはその話し相手は唯一の信頼できる友人であろうし、別の場合には、客観的な立場にあり秘密を守ってくれるようなカウンセラーだったりする。あるいはとりあえず身の回りにいて、手っ取り早く話を聞いてくれる誰でもいいのかもしれない。しかしとりあえずは誰かの前で自分の体験を話そうとするだろう。
もちろん人に話さないことを選ぶ場合もあろう。そのような人の場合には脳内で別のことが生じていると考えて除外し、とりあえず人に話すことで落ち着く人々、つまり私たちの多くについて考えたい。
結論から言えば、人に話すという行為により、その機序はよくわからないまでも、記憶の改編が起こり、その在り方が変わる可能性が高いということだ。あるつらい体験、ここではたとえば受験に失敗した、という例を考えることにするが、その体験が人に話すことで少し楽に扱えるようになった場合を考える。それらの記憶は確かに、話す前ほどは痛みをもって感じられなくなるのである。
ここで少なくとも一つ言えることは、これは忘却とは無縁の出来事であるということだ。忘却とは時間の経過とともに記憶を形成する神経ネットワークのシナプスの結びつきが低下し、あるいは一部が消失していくことだ。受験に失敗したというつらい記憶は、例えば半年後にはかなり軽減していることになるだろうが、その場合にはこの忘却が大きく影響していることになる。しかし人に話すことは、むしろその体験を言語的に再構成することで、シナプス間の結びつきを強めることにすらなるだろう。
ある苦痛な体験をした後、私たちは多くの場合、それを誰かに話したくなる。胸の内を誰かに話して、すっきりしたいと思う。その時は、「この話をあの人に聞いてもらえれば、きっとすっきりするに違いない」という予想を立てている。おそらく過去にも似た体験があり、その人に話すことで苦しみがある程度は解消するということが学習されているのだろう。時にはその話し相手は唯一の信頼できる友人であろうし、別の場合には、客観的な立場にあり秘密を守ってくれるようなカウンセラーだったりする。あるいはとりあえず身の回りにいて、手っ取り早く話を聞いてくれる誰でもいいのかもしれない。しかしとりあえずは誰かの前で自分の体験を話そうとするだろう。
もちろん人に話さないことを選ぶ場合もあろう。そのような人の場合には脳内で別のことが生じていると考えて除外し、とりあえず人に話すことで落ち着く人々、つまり私たちの多くについて考えたい。
結論から言えば、人に話すという行為により、その機序はよくわからないまでも、記憶の改編が起こり、その在り方が変わる可能性が高いということだ。あるつらい体験、ここではたとえば受験に失敗した、という例を考えることにするが、その体験が人に話すことで少し楽に扱えるようになった場合を考える。それらの記憶は確かに、話す前ほどは痛みをもって感じられなくなるのである。
ここで少なくとも一つ言えることは、これは忘却とは無縁の出来事であるということだ。忘却とは時間の経過とともに記憶を形成する神経ネットワークのシナプスの結びつきが低下し、あるいは一部が消失していくことだ。受験に失敗したというつらい記憶は、例えば半年後にはかなり軽減していることになるだろうが、その場合にはこの忘却が大きく影響していることになる。しかし人に話すことは、むしろその体験を言語的に再構成することで、シナプス間の結びつきを強めることにすらなるだろう。
ということは受験の失敗を話す過程で、「あの人の一言により救われた、楽になれた」というエピソードを聞くことがあるが、それまで持てなかった発想をその人から与えられ、ある種のニューロンのつながりが形成されることになったとしたら、それはその記憶が再編されたとみていい。たとえば「でもその受験はダメもとだ、とこの間までは言っていましたよね」と言われ、そもそもしばらく前までは失敗しても当然という覚悟を持っていたことを想起して、その受験の失敗の記憶が、「でももともと受かる気がしていなかったのだ」という認識と結びつくことで、より受け入れやすくなったのかもしれないのだ。
本来他人につらい体験を話すとき、その他人は様々な慰めの言葉のレパートリーを持っている。相談を持ち掛けられた方も、少しでも役に立とうとさまざまなことを言うだろう。先ほどの「ダメもとだったと考えればいい」以外にも、「人生、まだやり直しがきくさ」でも「いいことばかりではないよ。」でも「運は後に取っておけばいいだろう」でもいい。実はそれらのほとんどは気休めにしか過ぎないが、そのうちのどれかが本人にとってヒットするかもしれない。すると「あの一言で楽になった」という印象とともに失敗の記憶が別の色を放つようになるのである。