2014年7月21日月曜日

トラウマ記憶と解離の治療(推敲)19

 さて本書の最後のケース、エマの症例(186ページ)についても簡単に触れよう。
エマは車椅子の40代後半の女性で、近所の人に盗聴されているという訴えとともにやって来た。その訴えの割には彼女は平然として落ち着いているのが特徴だった。その発症年齢の点でも、それ以外はまとまった思考の点でも、統合失調症とは考えられなかった。エマは12年前の36歳の頃、誤って階段から落ちて脊髄を損傷した。それまでは看護師であるとともに、様々なスポーツを楽しむ女性であったという。
 事故からしばらくしてエマはMS(多発性硬化症)の症状も出るようになった。それから両親のもとに戻った45歳の頃に、エマは二度目の事故に遭った。ゴミ捨てをしている間に車いすが横倒しになり、脊髄損傷を悪化させ、さらに体の動きが制限されてしまうことになった。そして2年前から幻聴が始まったのだ。それは彼女が「不具で役立たずで社会に迷惑をかけてばっかりいる」と罵る声であったという。そしてその声が言うには「お前さえその気になりさえすれば、立ち上がって歩くこともできるんだ!」というのだそうだ。そしてその声が朝も夜も聞こえるために、自分は見張られ、盗聴されているに違いないと感じ、それで冒頭の被害妄想となったのである。
セラピストがEMDRを交えて二度目の事故について振り返っている時、エマは突然「こんな車椅子の生活はまっぴらよ!」と怒りをぶちまけたが、それはその時までは幻聴の形で限定されていた彼女の激しい感情であった。それからエマは事故の事ではなく、それまで封印していた様々な感情を語るようになったという。「人に助けを求めるなんて、私はなんて自己中心的なんだろう!」「自分は父親を十分にケアするべきだ。」(彼女は母親を最近亡くしていたが、その後は父親も抑うつ的になっていた。)そして他人の世話をすることだけが自分の価値を表し、たとえ半身不随になっていても、それを理由にして他人を世話できない自分はどうしようもない人間だ、と思うのだという。更に彼女は「自分は他人を世話した分だけしか他人から世話を受ける資格がない」という思考を持っていたことがわかった。そうしてこれらの思考が明らかになっただけでも、エマの主観的な苦しさはだいぶ弱まったという。そこでセラピストはインデックスカードに次のように書くよう、エマに伝えた。
「私は他人の援助が欲しい、しかしそうするべきではない。なぜなら私が自分の障害のために人を助けることが出来ないことを嫌悪するのと同じくらいに、他人は自分を嫌悪するであろうからだ。」
治療者はこう理解したという。「エマは自己非難をすることが自分にとって極めて重要で、深い絶望と見捨てられに対する防衛の役割を果たしていた。自己を責めることで、エマは自分に起きたことをコントロールできるという錯覚が与えられ、それにより自分の障害と戦い続けることを可能にしているのだ。」
 エマは次のセッションにやってきて、自己非難についての理解を深めるにつれて、「自分は他人を世話できないから他人から受ける資格がない」という思考がより鮮明になったという。そしてそのことは実は一般の人には当てはまらないのではないかと考えるに至ったという。
そこでセラピストはエマの症状除去の状態を導いてみた。つまり「あなたが自分を責めることなく、抑うつ的でもなくなったらどうなるかを想像してみてください。」するとエマは「そんなことは想像できません。想像することにさえ抵抗があります。」という。そこでセラピストは、ジェンドリンのフェルトセンスを用いて、ではその時どのような体感があるかを説明してください、といった。
 結局セラピストはインデックスカードに次のように書いて、エマに読むように言った。
「私は抑うつを手放したくありません。私は自分を世話することができないし、幸福になれる資格がないからです。」
エマはそれを読んでから笑ったが、それは治療が始まって初めて見た彼女の笑顔だった。
それからインデックスカードに書かれる文章は次のように推移した。「私がもし自分や他人を世話できなかったら、私は自分が人間でない気がし、すると抑うつは避けられない。」
「私は自分にできることはすべてやりたい。しかしすると人は皆私がもっとできると思うだろう。すると助けを求めることなどできないし、そうすることは恐ろしいし鬱になってしまいそうだ。だから私は逃げて何もしなくとも、そのままの方がいい。」
この最後のカードを読んでいるうちにエマは次のことに気が付いたという。「本当は一番問題なのは、他人がどう見ているかではなく、自分が自分をどう見ているか、なのだ。自分が自分をどう見ているかが、他人に投影されているだけだったのだ。」このころになるともはや幻聴も消えていて、彼女のうつ状態もだいぶ和らいできたという。
 しかしここまでよくなってきた症状は、父親の健康状態が悪化することでまた再燃し、治療は振り出しに戻る形になったという。
 この二回目の治療の最大の障害と考えられたのは、彼女が幻聴の主が自分であるということをなかなか認められないことであった。
セラピストはエマに、「ためしに幻聴に同意してみてはどうでしょう? ちょっとした実験だと考えて。」と提案してみた。つまり幻聴が「お前はどうせ障害があるふりをしているだけなんだろう?」と言ってきた時に、次のように言ってみるのである。「そうよ、私は本当は歩けるわ。ただ歩けないようなふりをしているだけなのよ。あなたの言う通りよ。」といってみるのだ。そして幻聴があらゆる罵詈雑言を言ってきたら、それについてすべて同意する。このことをエマに提案すると、彼女は半信半疑ながら了解した。
 次の週にエマはやってきて報告した。「やってみたわ。そしたら、幻聴が黙ってしまったの。」このことでセラピストがわかったのは、幻聴は単に自分を責める気持ちの所有権を放棄することでそれが外在化されただけであったことだという。エマはさらに報告した。「実に不思議なのだけど、幻聴に向かって『私は歩けるわ』と言ったとき、何かすごくリアリティを感じたの。」
 そしてさらに次のセッションに現れたエマは言った。「私の中のある部分は、歩けないと言うことを認めようとしていないということを発見したの。」つまり彼女の心は幾層もの部分からなっていて、一部は歩けないことを自覚し、他の部分は歩けるけれど歩けないふりをしていると信じていたのだ。どうしてそうすることが必要だったのか?そのことを検討したうえで彼女がセッションの最後にカードに書いたのは次の内容だった。
「私は自分が歩けるんだと信じる必要がある。なぜなら歩けないとしたらそれはすべて自分のせいであり、そうだとすると私はそれには耐えられないから。だからあらゆる医学的な検査の結果にもかかわらず、私はまだ歩けると思うし、そうできない自分を非難するのだ。」
こうしてエマの幻聴は消褪していき、治療も終結に向かった。最後の日が近づいたある日、エマはある、まだ誰にも話したことがないという記憶について語った。彼女が幼少時に椎間板ヘルニアになったとのことである。それは幼少の子供にはとても珍しい病気であったが、そのうえさらにエマは同時に多発性硬化症の診断も受けたのだ。しかし子供だったエマは苦痛を一切表現することを母親から禁止された。苦しいと表現することは弱さの証明であり、エマは「母親の為に強くなくてはいけなかった」のである。こうして家族の中で生きていくためには否認が必要とわかったのだ。治療者がどうしてこの話をこれまでしなかったのかを問うと、エマは「だってすごく恥ずかしかったんですもの」と答えた。つまり彼女が家にいるときは、母親の強い教え、すなわち「病気を持ち苦しいということを認めることは負けを意味している」という考えに支配され続けたのだ。