2014年5月1日木曜日

私の夢理論(3)

 以下の部分も、「脳から見える心」からのコピペだ。自分の本からのコピペだから特に良心の呵責はないが、「手抜き」と思われると心外だ。今回は下線を入れた部分に特に注目してほしい。
 以上のホブソンの理論にはあまり海馬の話は出てこないが,最近の夢理論は,より海馬に焦点を当てたものとなっている。海馬ではさまざまな昼間の体験の記憶が,鋳型に記されて保存されているという事情を「脳科学と心の臨床」で説明したが,夢の際は日中の記憶のさまざまな組み換えがなされ,それが夢に反映しているらしい。池谷裕二氏は海馬についての第一線での研究者であるが,彼によれば夢では海馬が中心となって,日中の体験を引き出し,その断片をでたらめに組み合わせているということである(池谷他,2002)。たとえば断片的な記憶が五つあり,それが時系列的にはA,B,C,D,Eという順番で起きたとする。すると夢ではAにはCを,DにはBを,というふうにつなげて,そこに新しい意味が生まれるかを検討する。そしてその間は外界からの情報を一切遮断する必要があり,またその内容を実行してしまわないように,筋肉も動かないほうがよく,そのために感覚入力の遮断や,抗重力筋の麻痺は,どちらもREM期の特徴となっているのだ。
 ただしREMは記憶の定着に役に立つという説に関しては,逆にREMを抑制する抗うつ剤を使っても記憶が衰えないことも知られており,かんたんに結論は出ないようである。 REM期のもう一つの特徴として,前頭葉の機能が低下することで先述の,理性的,批判的思考の抑制が生じるということもあげられる。(「脳科学と心の臨床」、P132

(中略)賦活化・生成仮説について少し詳しく紹介したが、たとえばネットで検索をしてみても、夢に関する著書を読んでも、このホブソン達の説が主流になっているかといえばそうではない。夢を分析可能なものとみなし、そこに様々な意味を見いだすという臨床活動を続けている人たちも、まだ沢山いるだろう。先ほども触れたが、夢の分析を中心とするユング派の精神分析的治療が健在であることもその証である。
 夢の理論について私自身が考えているモデルは、ホブソンの説とフロイトの説のどちらでもあって、どちらでもないようなところがある。ホブソンの説のように、夢の素材は確かにランダム性を持つかもしれない。しかし驚くのはそれをもとにストーリーを組み上げる脳の自律性なのである。そこにはフロイトが論じた様々なメカニズムが働いている可能性があるが、それを明らかにするだけの学問的な蓄積を私たちは持っていない。とにかく何らかのきわめて複雑で精巧なメカニズムがあるから、私たちはその結果として生まれる科学的な発見や芸術的な創造物に感動するのである。
 夢の素材がランダムであるということは、それ自身に奥深い意味を見出すことは、必ずしもできないということだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家人が出てくることもある。それは私の脳に蓄積されている記憶の中に彼らが登場する頻度がそれだけ多いから、という単純な理由かもしれないし、彼らとの交流がそれだけ情緒的なインパクトが大きかったからかもしれない。また今日の夢なぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かんできたかに深い理由などないことが多いのだ。たまたまそれらがピックアップされたのである。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
 私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかの科学的なメカニズムを考えた。それらが(1) 圧縮の作業、(2) 移動の作業、(3 )戯曲化、(4) 理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。たとえば患者の夢の中にピストルや葉巻が出てきたら、それは男性の性的な衝動という意味を持つ、などの例がわかりやすいだろう。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の神経症的な病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界があるというものだ。たとえばピストルや葉巻はひょっとしたらそれ以上の意味はない。でもそれが夢の中に織り込まれてストーリーが構築される様が驚くべきなのである。そしてその素材の選ばれ方やストーリーの展開の仕方の根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているのである。
 ところで前章(ナンのことだ?)ではニューラルネットワークの創造的な課程について述べたが、この夢の過程に特徴的なのは、意識の受身的な性質がさらに明らかだということである。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。スクリーンに展開されるストーリーをただ追うだけで精いっぱいの観客の立場なのだ。そしてそれに胸打たれ、その余韻の中におかれる。ただ最初に述べたように、その余韻は長くとも覚醒して5分程度までが限度である。そのうちその圧倒的な印象も、その内容の細部も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは夢に対して完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という創造プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのも矛盾しているようだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機材が発明され、30分ほどのレム睡眠の間に体験したストーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件下にあるからだと考えられる。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
 以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程は糸がランダムな長さで紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。