2014年4月2日水曜日

続・解離の治療論(19)

東京人の私にとっては京都が「異国」なのだが、京都に来るといくつかのプチ・カルチャーショックがある。京都でタクシーを拾った。まずタクシーの車種がなんとなく古めかしく、くすんでいる。どうしてだろう、同じ国なのに何でこんなに違うんだろう。初乗りの料金が600円!まあこれは想定内。そしてシートベルトを締めようとすると、金具を入れる先が・・・・・。取り外されていて見つからない。そこで恐る恐る運転手さんに「シートベルトをはめる先がないんですけれど・・・」そしてその反応がカルチャーショックだった。「あ、それいいんですよ。」あれ、シートベルとって、客のためにあるんじゃないの?京都の町を歩くと、いくつかの不思議な建物がある。人が住んでいるのかいないのか、どうして壊されないで残っているのかがわからないようなビミョーな建物。もちろん建物は都市が立つにつれて壊れ、風化し、住人も代わるだろう。中途半端な、いわば境界線上の建物はいくらでもあっていい。東京にだってある。今住んでいる港区にも結構あるが、周囲からは目立つ。ところが京都では、その種の建物の割合が高い。ちょうど昭和30年~40年代の東京のような感じ。これがいいんだな。そんなに急いで壊さなくてもいいじゃん。と思うような建物を、東京はすぐ壊して建て直す。京都の町を見るとほっとするのである。私のイイ加減さとあっているのだ。


さて本題。昨日の鉱物の話はともかく・・・・・。(でも面白い。地学って。)子供の人格はどこかで納得し、その上で「おねんね」する必要がある。その際様々な納得の仕方が考えられるであろう。「もうたくさん遊んだからいいや。」かもしれないし、「もう僕疲れたから寝ていいんだね。」かもしれない。「僕が悪いんじゃないよね。」とか「ママはもう僕が見ていなくても大丈夫だね。」もありうる。それはカウンセラーからの言葉により生じるかもしれないしパートナーからの何気ない一言かもしれない。時には「浄霊師」による「消えなさい!」という一喝かもしれないのである。
ただし私は一番理想的なのは、主人格が子供人格に対して語りかけ、満足し、納得してもらうことであろうと思う。主人格と子供人格の「対話」の成立である。


ある20代の患者さんは3年前から子供の声が自分の中で聞こえてくることを自覚するようになった。しかしその内容が聞き取れないことが多かった。親しい友達にそれを打ち明けると、文字に書いてみてはどうかと提案された。そこで書いてみると「あたしはここにいていいの?」「遊んでくれないの?」などが読み取れるようになった。その経緯を聞いた治療者が胸に手を当てて子供の声を聞くように勧めたところ、「子供との言葉がかわせるような気がした」と報告する。それからは胸に手を当てるという仕草を繰り返すようになり、子供の人格との交流が進むようになった。子供は「私がいなくなっちゃうの?」と不安を口にし、患者はそれに対して何と答えていいか分からずに治療者に相談をする、という形で、一種のコーチングを施すという形で治療が進んでいった。