2014年3月23日日曜日

続・解離の治療論(9)


子供の人格が十分に扱われなかった場合

さていったん出現した子供の人格がパートナー(あるいは場合によっては治療者)により十分に扱われなかった場合はどうなるのであろうか? そこには様々な可能性を考えることができる。しかし多くの臨床例に接した上で言えるのは、いったん形を成した(「結晶化した」)子供の人格は、急には姿を消すことはないということである。ただ同居者の拒絶的な、あるいは無視する度合いによりその出現の仕方に差が生じることになる。場合によっては子供の人格はパートナーが留守をしているときに一人で出て遊ぶということもありうる。日中パートナーが仕事に出ている間中の記憶がなく、お絵かきをした跡が残されているというエピソードもしばしば耳にする。
拒絶的なパートナーの前で子供の人格が姿を見せないということは、決してネガティブなことばかりではない。子供の人格を疎ましく思うパートナーの場合には、そこで虐待による更なる外傷体験が生じる場合がある。子供が暴力的になりかねないパートナーの前から身を隠すのにはそのような適応的な意味もあるのである。ただしもちろんすべての子供の人格がそのような「分別」を備えているという保証はない。特に覚醒レベルの下がる夜間や、いったん眠りに入った状態には、子供の人格が迷い出て、パートナーによりどやし付けられるということも起きうる。
いうまでもなくすべてのDIDのパートナーたちが子供の人格を快く受け入れるわけではない。しかし子供に虐待的な扱いしか見せないという場合も多くはないであろう。大部分のパートナーたちは、時折あらわれる子供の人格に対してそれなりに「大人の対応」をし、遊びに付き合い、あやし、寝かしつけるという反応を見せるようである。ただしそこに治療者に求められるような首尾一貫性を期待できない場合が多い。多くのパートナーにとって、子供の人格の出現は予想外のことであり、心の準備ができていないうちに、相手との心的距離が接近していくうちに遭遇してしまうものである。そこでパートナーの母性的な側面を刺激され、子供の部分を含めて一層相手に愛情を感じる場合があるとしても、時には苛立ち、サディスティックな欲求を刺激されることがあり、親のような安定した養育的な態度を保ち続けることが難しいものである。それでもDIDの患者が実際に幼少時に受けた養育よりははるかに保護的で受容的であるために、子供の人格にとって発達促進的となることが多い。