2014年3月7日金曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲) (8)

今日の部分もあまり書き直しをするところはなかった。「無限連鎖型」の謝罪って面白い概念だと思うのだが・・・・。日本人がお互いに頭をペコペコし合っているというイメージ。


日本人の「無限連鎖型」の謝罪と「自己愛トラウマ」の回避

次に日本人の謝罪について考えてみると、こちらのほうは逆に過剰さが特徴ではないかと思う。私たちは日常生活でも、かなり頻繁に「すみません」を口にする傾向にある。そして「すみません」の持つ過剰さは、その頻度だけでなく、その言葉の意味そのものにある。「すみません」とか「申し訳ありません」の本来の意味を考えると、「自分のしたことは、いくら謝っても謝り尽くせません」と言っていることになる。「すみません」は、「決して罪滅ぼしをして済ますことはできるだろうか、いや出来ない」を、「申し訳ありません」は「言い訳をすることはできるだろうか、いやできません」を意味し、いわば反語的な表現といえる。それを用いることで謝罪の気持ちを強調する修辞的な表現なのだ。そこに過剰さがあるのである。
同様の事情は、感謝の意を伝えるような場合にも当てはまる。「ありがとう」は、「有難い」、つまり「これはありえないほどの恩恵をいただきました」という意味である。あるいは「すみません」も「申し訳ありません」という本来は謝罪のための言葉も、贈り物を受け取る際に頻用されることを考えれば、日本語においては謝罪も言葉だけでなく、感謝の言葉も同様の過剰さを持っていることになろう。
過剰な謝罪や謝意は多くのバリエーションを持つ。たとえば「なんとお礼を申し上げていいか・・・・」、「お詫びの言葉もありません・・・・」、「お目汚しですが・・・」、「なんとお礼を申し上げていいか・・・・」などはいずれもそうである。そしてこのバリエーションが「過剰さ」の微妙な違いを含んでいるといえよう。
このような謝罪や感謝の過剰な表現を受けた相手の反応はどうだろうか。必然的にそれを否定する形で返すことになる。極端な謝罪や感謝をそのまま受けるわけには行かないからだ。しかし同じ日本語である以上、その否定もまた過剰に行われるだろう。こうしてこの種のやり取りは延々と続くことになる。私が先ほど「無限連鎖型」と呼んだこの種の日本語のやり取りは、日本語の謝罪や謝意の表現が持つ過剰さと関係していたのである。
「無限連鎖型」のやり取りは、行動面についても見られることがある。たとえば会食をした後には「私が払います」「いやいや、私が・・・」というやり取りが、レジの前で一種の儀式のような形で繰り返される。あるいは日本人同士お辞儀による挨拶は、あたかもどちらがより深く相手に頭を下げたかを競い合うような形で行われる。この無限連鎖的なやり取りは、お互いに明確な優劣や雌雄を決することを永久に回避するための装置のようなものといえよう。それは優劣や責任の所在を明確化する傾向にある欧米人のやり取りとは非常に対照的なのである。
これらの無限連鎖型のコミュニケーションの役割は何か? 私はその主たる目標は相手に対する謝罪や感謝を過剰に行うことで、相手が自己愛トラウマを体験するような事態を回避することではないかと思う。
相手を褒める行為は、それを褒められた相手が「真に受けた」場合に、褒めた側に自己愛の傷つきを伴う可能性がある。「あなたは素晴らしい」は同時に「私はそれに比べて劣っています」というメッセージでもあり、それを相手から正しいと認められてしまう形になるからだ。その際に褒められた相手が褒め言葉を「真に受けず」に「それほどでもありません」「いやあなたこそ立派です」と返すことは、その自己愛の傷つきを軽減することになるのだ。
相手に謝罪する行為は、自らの非を認めるという意味で、やはり自己愛の傷つきを伴う可能性のある行為である。だから謝られた相手は、それが可能な場合は「いえ、こちらこそ」という返し方をすることで、謝罪する側の自己愛の傷つきを軽減し、深刻な自己愛トラウマを回避するという目的があるのである。