2014年2月13日木曜日

日本人のトラウマ(8)

でもオリンピックって、過酷だよね。一回勝負では何が起きるのかわからない。国民の期待を一身に背負って出場し、一瞬のうちに勝敗が決まり、ある選手は誇らしげに、ある選手は肩を落として帰ってくる。沙羅ちゃん、4年後があるよ、といってもねえ・・・。


第5章 日本文化の中で「いじめによるトラウマ」を考える

1980年代よりわが国でもしばしば問題となっているいじめと自殺の問題。それが根本的に解決する方向にあるとはいえない。それは昨今のいじめ自殺に関する数多くの報道からも感じられることであり、これまでのいじめに関する分析や考察がいまだ不十分なもので解決の糸口がつかめていないことを意味するのであろう。またいじめの性質や特徴は、その時代背景により様々に異なり、いじめの質そのものが変化してきている可能性ある。ともかくもいじめを受けるという体験は現代日本人が体験するトラウマの主要なものの一つと考えていい。
まず「いじめ問題」を考える私自身の立場を示しておきたい。私は海外生活が長く、異文化体験を通して、集団の中での日本人のあり方についても深い関心を持つようになっている。さらには私自身集団にうまく染まらずに排除されかけるという体験も持ってきた。その立場からいじめの問題を考えた場合、やはりそこに日本文化の影響を否定できないと考える。いじめは深刻なトラウマをもたらす。誰もいじめの対象になろうとは決して望まない。しかしいじめはまた日本人的な心性に深く根ざしたものであり、半ば必然的に起きてしまうのではないか、というのが、本章を通しての私の主張なのだ。
私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることはさびしく、また恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言えるが、そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。
 ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちを排除するという力もしばしば働くようになる。いわゆるスケープゴート現象であるが、本章ではその仕組みを「排除の力学」と呼び、以下に考察していく。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それが犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、病的なのである。
いじめトラウマを生む「排除の力学」
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも二つある、と私は考える。一つはメンバーが明白な形で利害を共有しているということだ。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。
もう一つは、集団のメンバーが共に敵ないしは仮想敵を持っている場合である。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」という要素が書きこまれることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。するとその敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。
昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと共う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学はそのまま、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。これらの二つの条件はそのまま、仲間はずれや村八分を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ(後述)。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与える。そしてそのリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、上記の二番目の条件にしたがって強い「排除の力学」が働き、仲間外れはあっという間に生まれるのだ。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか?」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くしよう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
この「排除の力学」は実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。