2014年1月8日水曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(24)

逆切れというのは間違いなく、最近の(私にとっては「帰国後」の)言葉だが、これってまさに、恥辱を解消するための方法としての怒りを表現するための言葉のように思える。ウィキペディアで見てみよう。
「逆ギレ(ぎゃくギレ)とは、対人関係において、何らかの迷惑を被った被害者が迷惑を与えた加害者に怒りの感情を表している(つまり、相手に対してキレている)とき、加害者が自分が怒られていることに耐えきれずに、開き直り的に被害者に向かって逆に怒り出す現象を指す俗語である。」(ウィキペディア{逆ギレ}の項)
もちろんここに恥や恥辱という言葉は出てこないが、なぜ「自分が怒られていることに耐え切れない」のかを考えると、それはその恥の感情が耐え難いからだ。ここで恥をかかせた相手に怒る(逆ギレする)為の合理的な根拠 rationale は何もないことが多い。それでも本人にとてはそれでもいいのだ。沖縄のN知事が「何を質問したいの!」と声を荒げた時も、記者は確かに質問はしているのだ。それに対して「質問しろ!」は意味が通らない。それでも怒ってしまう。というのはそれほど恥辱は辛い体験だからだ。そして怒りは(当座は)それを確実に軽減する。自分の風船が侵害されたときは相手の風船を侵害し返す。そこに確かな道理などない。相手を見かけ上凹ますことができればそれでいい。
 それではどのようなとき逆ギレが可能なのか?それは相手が逆ギレに対する反撃をしてこないことが予想される時である。それは相手の立場が弱かったり、燃焼だったり、地位が下だったりする場合であり、こちらを怒らせることが明らかに相手の不利につながる場合である。というか逆ギレはそれが見て取れる時に初めて可能となる。それ以外の時は、人は自己愛の風船をつつかれた時には恥じ入り、それが続くと抑うつ的になるのである。
コフートの「自己愛憤怒」
以下は引用。
かつて精神分析家コフートは「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。(「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2) より)。