2014年1月7日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(23)

 昨日の続きだ。なぜ私の恥の感覚は半径50センチの私の自己愛に見合っているのか? 考えてみれば私はそのようなコメンテイターとして指名され、壇上に昇るようなこと自体を本来は望むべくもないかもしれない。しかし幸いにもそれだけの役割を与えられた(あくまでも夢の中での話だ)。私の方にも「そうか、私はコメンテイターなのだ。しっかり仕事をしなくては。少しは意味のある発言もしたい。若くて駆け出しで何も知らない時の私とは違うのだから」というような自負がある(あくまでも夢の・・・)。
もうちょっと別の例。この間大リーグのイチローの番組をやっていた。今シーズン4000本安打を記録した後に、スタメンに起用されず、消化試合の代打に回された時の屈辱感について。彼ほどに業績があるバッターの自己愛の半径はきっとかなり大きい。すると大リーグの舞台で打席に立つという、並の野球選手にとっては到底望むべくもないチャンスも、彼には恥辱体験になるのだ。それはあくまでも彼の大きさの自己愛の風船にとってそうだ、というわけである。ほかの人にとっては大きな誇りとなる体験でも。そして代打として登場して凡打した時のイチロー選手の体験した恥辱は、プロのマイナーリーグの選手が地方の試合に出て凡打した時の恥辱と質的には同様なのだ。ただし後者の場合の自己愛の風船はかなり小さいはずである。風船の大きさにかかわらず、恥辱が体験される、という例。
「じゃ、恥って何?」ということを思い出すと、私は次のように書いた。恥は「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである」と。そして恥はその人がどの程度NPDを発達させても、どの程度風船が大きくなっていても、不可避的に体験される。自己愛の風船の直径が10センチでも、100センチでも。その風船に侵入してくるものを受けてまず体験されるのは「俺ってダメかも・・・・・」という恥辱であり脅威である。それは昨日紹介したあの「恥ずべき自己」と「イケている自己」のルーレットが回って「恥ずべき自己」に転落するという体験ということになる。人間の心はそのようにできているのだ。
 さてここでこの苦しい恥辱の感情を解消する素晴らしい方法があるのである。それは、侵害をしてきた相手を怒り、罵り、撃退することだ。もちろんその相手に直接攻撃を仕掛けられない場合は、近くにいる手頃な、口答えをしない人でもいい(かわいそう!)。相手を打ちのめすことで、この恥辱が和らぐ。それはどうしてか。
恥の定義を再び思い出そう。「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛み」。つまりは自分が周囲のどんぐりに比べて小さくなってしまったような状態である。ということはそれを解消する最も手っ取り早い手段は、周囲のどんぐりをハンマーで叩いて低くしてしまうことなのである。これって政治の世界ではよく見かけるよね。政治家が記者会見で記者たちに鋭い質問を浴びせられると、逆ギレするのだ。沖縄のN知事が「それって公約違反じゃないですか?」と記者から質問を浴びて「何が聞きたいの!!」とキレたというニュースをネットで読んだ。これなんかいい例だよね。