2013年12月12日木曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(11)

私は教職にあるが、さすがに大学院生の親がねじ込んで来ることはない。だからMPに仕事がら接している訳ではないので、この「難しい親たちとパーソナリティ障害」というテーマについて書く資格がないような気がして、本を取り寄せて読んでみた。そして何か新しい発想が湧くと期待していたが、結局最初から考えていたところに落ち着きそうだ。まあ少しは自信を持って言えるようになったとも言えるが。
MPが親たちの未熟で他罰的なパーソナリティの影響によるもの」と行きたいところだが、結局その見方はおそらく単純化されすぎている。社会学者なら言いそうなことだが。もちろんストーリーとしては訴えかけるものはあるが、十分な説明にはなっていない。ちょうど70年代の学園紛争について、現代の学生の幼児化、未熟化のせいだ、とした場合に、その幼児性が時代とともにさらに進んで、学園紛争が止まらなくなり、全ての大学が荒廃してしまったかというとそうではない、というのと話は同じだ。
 ただし・・・・ ここからは重要だが、教師をつるしあげる(70年代)のも、親が学校にねじ込んで無理難題を押し付ける(現代)のもその人のパーソナリティ傾向の中に通常は見られない幼児的な側面が表現されている、ということは言えるだろう。いやもう少し正確さが必要だ。その人が何らかのきっかけと共に他罰的、自己中心的にふるまうようなスイッチが入ってしまった状態、という感じか。その人の性格の一部、というわけでもなく、でもそのような状態にやってしまいやすい、ということか。
 というのもMP化する人たちが一様に潜在的に未熟で他罰的な面を備えているかというと、案外そうでもないと思うからだ。社会人としてちゃんとやっていたりする。会社ではいつも上司に怒られてばかりで大人しくしている可能性もある。そして、MP化は、私たちの誰もが、状況によっては起こす可能性があるのだ。
ではMP達が一般人と同じかというと、一概にそうでもない。いったい私は何が言いたいのか。(物事に正確さを競うと思うと、却って曖昧になってしまうことはよくあることだ。)
 うんとつまらなくなってしまうが、正確ないい方をするとこうだ。「MPとなる人たちには、おそらくMP的なふるまいを起こしやすい傾向があるのだろう。それを仮にMP傾性、とでも呼ぶとしたら、おそらく親の中にはMP傾性が高い人、低い人がいる。低い人はたまたまなるし、高い人はしょっちゅうなる。そしておそらくMP傾性がゼロの人はほとんどいないのだ。私たちは状況次第ではMP化する危険性を誰しも持っている。
 ではMP傾性とは実質上(精神医学的に)何か? やはり私の頭の中ではボーダーライン傾性と変わらなくなる。ただし「ボーダーライン傾性 borderline inclination」とは、今私が初めて使っている言葉である。これまでどこかで書いている話だが、人はボーダーラインを潜在的に持ち、危機的な状況でボーダーライン反応を起こしやすい。誰でもなりうるのだ。特に恋愛をしている場合。あるいは激しくプライドを傷つけられた場合。ただしなりやすい人、なりにくい人はいて、すごーくなりやすい人はBPDと呼ばれる人たちなのだろう。

MPも、BPDの人が格別にそれに走りやすいというのはとてもわかる気がするし、似たような例を見ている。そしてそれ以外は社会の情勢、偶然性などが関係しているのだ。とりわけ社会情勢の影響は大きい。何しろ60年代、70年代は、かなり多くの大学生が高いボーダーライン傾性を発揮して、世の中を白か黒かに分け、ゲバ棒(もう死語かなあ)を振り回していたのだ。教室で本を読んでいると「どうしてお前はデモに参加しないのだ?」と言われる時代はそうなるしかなかったのだろう。
 現代のMPも確実に、「~のようなことを学校に要求する親がいた」という情報は入っていて、それが自分の行動を無意識レベルに律しているのであろう。一部のMP化したひと達が増殖していくのは、それを受ける体制が出来ていないからだ。米国のようにすぐにでも暴力装置が動員されるという仕組みは日本にはない・・・・。とこうなると説明は結局社会の側にも広がって行く。それは仕方ない。精神科的な問題(ここにしっかりMPも含ませていただく)は個人の素質と偶然と社会状況の3つの要素なしには成立しないからだ。