2006年の論文のデータをやっと見つけた。
児童心理.(847:1181-1185)9月号、2006年 所収
怒りについて考える-精神分析の立場から.
本稿では怒りについて精神力動学的な立場から考察する。
従来の怒りについての心理学的な理解はストレートでわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribotの説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している(1)。この種のストレートな理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。それはファリックで父親的であり、力の象徴というニュアンスがあったのである。
しかし近年になって見られるのは、怒りをその背後にある恥や罪悪感との関連から捉える方針である。怒りをこれらの別の感情に引き続いて生まれるものとする考え方は、いわゆる「二次的感情」や「自意識的感情」という概念とともにますます一般化しつつある。無論この考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりははるかに臨床的に価値があるものと考える。
基本的な視点
怒りについての私の関心は、恥に関する精神分析的な考察を進める中で生まれた。その経緯についてはすでに別の機会に論じたことがあるので、少し長くなるがここに引用しておく。本稿における考察は、ここから先ということになる。
人の怒る仕組み - 怒りの二重構造
まず怒りが起きるメカニズムに関する私の説明はこうである。人が腹を立てる際には、一連の典型的な心理プロセスがある。それはまず自分のプライドが傷ついたことによる心の痛みから始まる。そして次の瞬間に、自分のプライドを傷つけた(と思われる)人に向かう激しい怒りへと変わる。このプロセスはあまりにすばやく起きるために、怒っている当人も、それ以外の人もこの二重構造がほとんど見えない。
このプライドを傷つけられた痛みは急激で鮮烈なものである。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。
ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2)
以上の論旨を一言でいえば「怒りには、自己愛が傷つけられたことによる苦痛、すなわち恥が先立っている」ということになる。ちなみにここでは引用の中のプライドという表現を、もう少し一般的な「自己愛」と言い換えてある。
これまでは攻撃性や男性性と関連付けられる傾向にあった怒りが、実は恥や弱さへの防衛という意味合いを持っているというこの議論は、従来の精神分析理論からのかなりの逸脱を意味する。引用文中にもあるように、この視点は精神分析家H. Kohutにより端緒がつけられたが、そこにはA. Morrison (3),D.L. Nathanson (4), C. Goldberg (5) 等1980,1990年代の多くの分析家の貢献があった。特にMorrisonは「Kohutの理論は、恥の言語でつづられている。」とし、Kohutの「自己愛的憤怒narcissistic rage」についての理論を恥の文脈に導入するうえで大きな貢献をしたのである。
いわゆる自意識的感情self-conscious emotionの議論
怒りに関する同様の再考は、近年一般心理学の分野でも見られた。そこでは怒りは恥や罪悪感その他の「自意識的感情」との関連で捉えなおされることとなった。この分野の先駆者の一人であるTangney (6) は、怒りは恥の感情に対して二次的に生じてくるものという見方を示した。
怒りに関するこの種の新しい捉え方は、米国の臨床場面ではすでに広く受け入れられているという印象を受ける。米国ではさまざまな治療施設で「怒りの統御anger management」と名づけられた認知療法的な治療プログラムが行われているが、それらのマニュアル等を参照しても、怒りに対する同様の理解に基づいていることが多い。すなわち「自らの怒りをコントロールするためには、その際に自分の心におきている恥などのさまざまな内的感情に耳を傾けよ」という方針である。
さらにTangneyらは、恥の感情を強く持つ傾向のある人がどのように怒りの感情を処理するかについての調査を行っている。それによれば恥に陥りやすい人ほど、怒りを破壊的な形で表現する傾向にあるという結果が示されている。
健全な自己愛、病的な自己愛
さて私は現時点では、以上の論旨に若干の理論的な補充が必要だと考えている。確かに怒りの防衛的な意味合いについては一応強調出来たつもりである。私たちは怒りの背後にある自己愛の傷つきを自覚することで、自分が他人に向けている感情の正当性に疑いを差し挟むことが出来、結果的に怒りを鎮めることができる場合もあろう。そしてその怒りが表現されてしまった場合に不本意な形で他人の自己愛を傷つけ、さらなる怒りの連鎖を招くといった事態もある程度は防げるかもしれない。しかしこの種の自覚を深めることで人は最終的には怒ることがなくなり、社会は平和になるのだろうか? おそらくそうではないだろう。多くの防衛機制について言えることだが、それには何らかのより本質的な存在理由や必然性が伴うことが多い。怒りの必然性や正当性についても検討しておかなければあまりに不十分な議論といえる。
自己愛を正常範囲まで含めて考えるのは現代の趨勢でもある。一つの連続体として自己愛を考え、そこには中心に健全な部分を持ち、周囲に病的に肥大した部分を持つというイメージを考えればよい(図1)。ここで健全な自己愛とはわが身を危険から守るという一種の自己保存本能と同根だと考えればよい。そしてその具体的な構成要素としては、自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安全な環境といったものが挙げられよう。
また周囲の病的に肥大した部分には、偉い、強い、優れた、ないしは常に人に注意を向けられて当然であるという自分のイメージが相当することになる。
この自己愛の連続体を考えた場合、怒りとは、そのどの部分が侵害されても生じることになろう。病的に肥大した自己イメージの部分が侵害された場合についてはすでに論じたが、正常の自己愛が侵害された場合には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生じる。その際は恥よりもさらに未分化な、一種の反射ないしは衝動が怒りに転化するのだ。そしてこちらは一次的な感情としての怒り、と考えるべきなのである。
ただしここに問題が生じる。自己愛が連続体である以上、それが侵害を受けたと感じたのが健全な部分が病的な部分かは、しばしば当人にさえも区別がつかないことがある。
混んでいる電車で足を踏みつけられた時の怒りという例を再び取り上げよう。その人が自分の存在を無視されたと感じ、大して痛くもないのに踏まれた相手に大げさに咬みつくとしたら、これは病的といえるだろう。しかし実際に足の甲に鋭いヒールが食い込んだ際の耐え難い痛みのために、反射的に声を上げて相手を突き飛ばしてしまう場合もあるだろう。こちらは誰の目にも正当な怒りに映るはずだ。以上の例は両極端でわかりやすいが、大概の場合、足を踏まれて腹を立てた際の私たちの怒りはどちらの要素も伴った複雑な存在であることが多い。
(以下略)