ところでなぜこの死の問題が出てくるのか。それは死の問題が私たち存在にとって常に否認 disavowされたものだからなのだ。人間の心理を探求するものとして(いちおうそうそのつもりです)この問題をちゃんと扱うことは避けられないという考えがある。それとわれわれ心の専門家(一応、そういうことにしています)としては、死の問題の否認を超えたところに一つの人間のより充足した在り方があるという理解を持っている。例えば自らの死を覚悟した時に生の喜びを初めて体験するという現象をどのようにとらえるのか。運命を受け入れる時ににどうして私たちはあるとらわれから解放されたと感じるのか。フロイトもこんなことを言っている。「人間はあきらめることで真の幸福を得ることができる。」(要典拠)
高校一年の時、友達Aに誘われて水泳部に入った。しかし健康上の理由で、ひと月足らずで私だけやめざるを得なかった。その時の辛い思いを思い出す。自分にとって水泳部での活動がすごく大切かといわれればそうとも思えない。水泳がそれほど好きというわけではない。Aに誘われてたまたま入ったのだ。しかしそこで記録の競争をし始め、毎日お互いにタイムが少しずつ縮まるのが楽しくなり始めていた。私は医者に水泳を止められたときに非常に悔しかったが、それは主としてAとの関係においてであり、それだけなのに、これほどつらいというのが興味深かった。Aと私は小学校時代からの親友で、二人とも運動はあまり得意ではなかった。しかしたまたま二人とも水泳ではまあまあの成績を残すことができていたのである。スポーツで活躍して目立ちたい、というのが私たちにとっての共通の夢だったので、高校の水泳部に興味を示したAに引っ張られる形で私も入ったのだ。その時の私の辛さは、Aが水泳部で記録を伸ばしていき、スポーツマンとして自分とは違う世界に入っていくことを受け入れるだけでよかった。(その後Aは大学に進んでそこの水泳部のキャプテンにまでなった。後になってたまたま一緒にプールで遊んだ時、彼は見事なスイマー体型になっていたAを私はまぶしく眺めたのである。)
私たちは日常的にさまざまなことにとらわれ、自らの運命を不満に思うことが多い。それは私たちが持っているものを当たり前と思い、持っていないものを不幸と感じるからだ。もし持っているものに感謝をし、持たないものを当たり前だと思うことが出来たら、私たちの人生はもっと感謝に満ちたものになる。これは非常に当たり前のことであり、しかしその境地に到達することは非常に難しいことでもある。私たちが自らの生を感謝することができるのは、それを死という背景とともに意識する場合でしかない。死という「地」を背景にして、生という「図」は浮き上がってみえる。生を当たり前のこととして(つまりは死を否認して)生きる以上、決して生を享受することはできない。死はいつまでも不幸や恐怖の象徴のままに留まるのである。