2013年5月24日金曜日

精神療法から見た森田療法 (18)

昨日から福岡に来ている。学会発表のためだ。福岡の街を歩いた感想。自転車が多い。東京より堂々と、車道を走っている。歩行者は押され気味、という感じ。それとタクシーの運転手さんたちが威厳がある。2度使ったが、二回とも、降りるときに客である私が「ありがとうございました」といったが、特に返事はなかった。自分の職業にプライドを持つことは素晴らしい・・・・。

このブログの森田療法のシリーズ、もう17回も書いているのに、とんでもない方向に向かい始めている。つまり森田療法の本質は、いわく言いがたし。結局は非言語的な体験なのだ、一種の宗教的な体験に近いのだ、という方向性だ。まあそこにいたるまでに2週間強もかかったと言うことなわけだが。という子とはめたスキルの部分でつながっていると言うわけだろうか?実は私が一応専門としている力動的な精神療法でも、最終的に必要とされるのは「メタスキル」ということになる。それは一種のニュートラリティ、中立性ということとも近い。それはセラピストがおかれたある状態、と言うわけだ。「宿善開発」とか「信心獲得」と言うのは依然としてわからないが、ある種の高みに立って、自分の生の刻一刻を死とのコントラストにおいて体験するという姿勢?メタスキル、という言葉を思い出した。メタスキルはピリチュアリズムの世界ではよく用いられる概念であり、アーノルド・ミンデルの奥方のエイミー・ミンデルの概念であるという。それはスキルを超えた「心理療法家・セラピストとしての『姿勢』」であるというわけだ。メタスキルの定義としては、ネットではこんなことを書いてある。

 Deep spiritual attitudes and beliefs manifest in therapy and in every daily life. Through their feelings and attitudes, therapists express their fundamental beliefs about life. These attitudes permeate and shape all of the therapists apparent techniques. Conceptually, I raise these essential underlying feelings of the therapist to skills that must and can be studied and cultivated. I call these feeling attitudes metaskills.
治療や日常生活に現れる深いスピリチュアルな姿勢や信念。治療者は彼の人生に関する根本的な信念を表現する。その深遠が浸透し、形を成したのがテクニックなのだ。みたいな。森田療法にしてもある種の姿勢を言葉を変えていろいろ言っているわけだが、言葉から入ると、つまり5つのガイドラインと4つのスキルに従えばいいのか、などと考えると、全然大事な部分が伝わってこない。
 そこでセラピストがある種の姿勢を身に付け、あとは自然体で患者に接するという風に考えると、森田療法もわかるような気がする。森田療法ではそれを無理に言葉にすると、「とらわれを捨て、あるがままでいよ」となる。でもそれを具体的に考えていくと、結局はよくわからなくなる。中村先生の5つのガイドライン、4つのスキルも、それを敢えて言葉ににしたというところがある。でもそれはまるで三次元の立体が、2次元の紙の上に影を落としているように、言葉では伝わらないものなのだ。もちろん中村先生もそれをよくご存知だと思う。
 メタスキル、すなわち姿勢として森田療法を考えた場合、その内実を言葉にすることは出来ないながらも、それを言い換えることは出来るだろう。細かいことに拘泥せず、あらゆる現実を端然と受け止める姿勢。とすれば・・・・結局このシリーズの第一回目に戻ってしまう。
17日前に私は書いた。
私が最近考えているのは、諦念、受け入れ、受容といったことに近い。もちろん受容という問題はおよそあらゆる文脈で扱われるわけだが、それでも自分の中にこのテーマに関する新しさを覚える。このテーマは例えば、対人関係においてみると説明しやすいかもしれない。人と知り合い、親しくなる。でもその関係は、将来必ず終わるのだ。親しみということが実は幻の上に成り立っている。夢の世界と言ってもいいかもしれない。もちろんそれは楽しいし学ぶことも多い。そこで生きがいも感じるだろう。でもそれが深まり、進行していけば必ず終わる運命にある。
いろいろ考えても戻ってきてしまったことになる。