2013年5月18日土曜日

精神療法から見た森田療法 (12)


さて論文では、次に森田療法で広く用いられるスキルについての説明になる。それらは1.共感と普遍化、2.メタファーとリフレーミング、3.症状の脱焦点化、4.日記療法、とある。これらを一つ一つ見ていく。
1.共感と普遍化。共感はとくに説明の必要はないだろう。普遍化については、「患者の体験が自然な、それゆえ避けることのできない感情や欲望であることを伝える」とある。そしてそのために治療者は「私たちは…」などと一人称複数形で話す、必要とあらば治療者は自己開示を行うことも薦められている。この1.については、おそらく普遍化の部分に森田療法的な要素が含まれている。そこには病苦は人間にとって自然なことであり、その人だけに起こっているのではないという点を伝えることである。ただし認知療法的には、「誰にでもあること」というメッセージは「面接者は自分の問題を『誰にでもあること』と一般化、矮小化している」という印象を与える可能性についても注意すべきであろう。実際にそのように言われてしまうことがけっこうあるんだな。でもまず病気を受け入れよ、という森田らしさが出ている。
2.メタファーとリフレーミング。森田正馬先生は比喩が好きだったらしい。「一波を持って一波を消さんとす、千波万波やってくる」などの例が紹介されている。でもまあこれは通常の診療にももちいられるし。何か「これがモリタだ!」と思えるのがほしいなあ。リフレーミングの方は、患者の不安を、その裏にある欲望に読みかえるという。例えば「他人から悪く思われないかと不安」を「他人からよく思われたいのですね。」とリフレーミングし、「病気ではないかと不安」な人に「健康でありたいのですね」と言い換える。これは一種の認知療法的なアプローチということができる。ただし認知療法にこのようなアプローチが具体的なテクニックとして教えられているかはわからないが。
でもこのリフレーミング、聞く患者側としてはどうだろう。例えば私が「他人に恥をかかされるではないかと不安になります」と伝えて、私の治療者が「あのね、それはあなたがうまくやりたい、と強く願っているということなのですよ。」といわれる。その際に私の心に起きることは何か? 
ちょっと真面目に思考実験をしてみる。自分を患者の立場において想像してみるのだ。私もある発表をする際には恐れがある。実際にはそのためにカウンセリングを必要とするほどではないが、いかに自分の考えをまとめて短時間の間にまとめて話すかは、私の生活の中で重大な関心事である。今年も年末までに、大きな会場で考えを発表する機会は10回以上ある。そのために常に心の準備をし、話の内容をまとめることが私の関心事のかなりの部分を占める。その私がカウンセリングを受けたとして、カウンセラーに言われるのだ。「それはあなたがうまくやりたい、と強く願っているということなのですよ。」
そしてその線で考えてみる。確かにそれらの発表は、私が楽しみにし、かつそれをおそれ、かつストレスに感じている。発表を考える時、「こんな考えを伝えてみよう」などと計画を練るのは割と楽しい。しかし「それをうまく表現できるだろうか?」と懸念する部分は、決して楽しいものではない。むしろ苦痛かもしれない。そしてその苦痛な部分は、しかし「うまくやろう!」という部分にかなり連動している。「うまくやろうとすれば、それだけ不安になる」は森田の言う通りなのだ。
そこでうまくやろう、ということが恐れとどう関係しているのだろうかを考えてみる。ひとつにはそれが未知の場面での発表だということだ。例えば週に何回かおこなっている大学院での講義では、私はとくに不安や緊張感を覚えない。そしてそれは場所も聴衆もお互いにすでに慣れ親しんでいるし、そこで何が起きるかを予測できるからだ。それは決して大した授業ではないことはわかっている。もう何年も同じよう話をしているのだから。しかしとんでもない、箸にも棒にもかからないような内容ではない。そこそこである。
ところが私がこれから10回以上行う発表は、場所もほとんどが一度も訪れたことがない会場だし、聴衆も私の知らない人たちばかりである。しかも内容は基本的にオリジナルである。それがどのように私の口からで、聴衆にどのように受けいられられるかを考えるのは、それが初めてであるだけに怖いのである。ちょうど歌手が新曲を初めて披露する際には緊張する、というのと似ているかもしれない。それまで自分のレパートリーを何曲か平気で歌っていても、新曲の番になると彼らは緊張する。それはその歌を歌っている時の自分に慣れていず、聴衆の反応も予測がつかないからである。
「うまくやりたいと思うほど緊張する」は「だからうまくやろうと思うな」という示唆をすでに伴っている。それが役立つという人も少しはいるかもしれない。しかし「うまくやりたい」は、むしろ未知の場で発表をすることの不安からきている。恥をかかないためにはうまくやろう、というわけだ。それを解決するためには究極的にはそれに準備をして、なれていく以外にない。森田療法的なリフレーミングはその意味では私にとってはあまり有効でない気がする。
むしろ私自身にとって意味があるとすればそれは、「慣れない発表をするのがこわい、ということは大部分の人にとってあるので、異常なことではない」というメッセージではないかと思う。それは不安や恐怖は、それとして受け入れるしかないが、それは人間みなやっていることである、ということである。不安を直接取り去るわけではないが、不安を持っていることのうしろめたさから救ってくれるというところがある。言い換えれば、とらわれから自由になることはない、それを受け入れよ、というメッセージだ。