2013年3月25日月曜日

精神分析と家族療法(8)



 ということで家族療法だが、私の中では家族療法が「マイブーム」だった時期がある。1991年からの23年である。メニンガー・クリニックのレジデントの3年目は、家族療法の講義が通年であった。ミニューチン、ボーエン、ミラノ学派など、一通りの理論を教わった。そしてこの世界もかなり「熱い」ことを知ったのである。アメリカでは家族療法はソーシャルワーカーの仕事である。メニンガーの精神科レジデントの為の家族療法の講義は全てソーシャルワーカーたちが担当していたが、彼らは家族療法というフィールドを任せられて喜々としているという印象を持った。Psychotherapy Networkerという家族療法家向け(今はどうかわからない)の雑誌に出会ったのもそのころで得ある。

車で数時間の距離にある、ネブラスカ州のオマハでサルバドール・ミニューチンがワークショップを開いた時は、当時メニンガーに留学中だった心理士の安村直己さんと一緒に参加し、ミニューチン大先生と記念写真を撮ったほどである。(知らない人には全く意味がないかもしれないが。)
しかし私は家族療法を専門にやるということは全くない。基本的には門外漢であるということをお断りした上での話しだが、精神科医としての治療の中で家族との面談は非常に多い。外来の患者にはしばしば家族が付き添う。家族同伴での面談は、おそらく臨床の3,4割強を占めるだろう。一日30人の外来では、10人が両親か母親か配偶者と一緒に診察室を訪れる。私は基本的には彼らにも一緒に入ってもらう(もちろん患者本人の了解の上で、である)これは私なりの家族療法、ないしは家族プロセスである。
  私はそのような場合に自分が話すことで家族に何らかの有益な影響を与えていると実感することが、ごく偶にだがある。それはどのような意味なのかを少し考える。そこですでに書いたマイルールの話が再び関係してくる。

マイルールの絡み合いを外から見る治療者

それぞれの家族に、ある種のファミリールールが出来ているだろう。それはその家族で毎日繰り返される日常が従うべきルールである。これは結局は誰かのマイルールが家族のルールに格上げされているということが多いだろう。たとえば「ウチでは食事のときはケータイはいじらない」というルールがあるとすれば、それは父親がそう考えるから家族にも押し付けているという可能性がある。母親は「メールを時々チェックするくらいいいじゃないの」とか思っていても、なんとなく夫の言うことに逆らえない、とか。
ただし家族の中での葛藤が生じているときは、このファミリールールがあいまいになり、それぞれのマイルールが衝突しあうと言うことが起きているはずだ。娘が食事中にケータイをちょっといじったのを見逃さなかった父親が大声を出す。その時に母親がつぶやく様に「自分だって勝手なことしてるくせに、子供にばかり厳しいんだから・・・・」と言う。父親はそれを言われては形無しだから「おい、今なんと言ったんだ!」となる。食卓にイヤーな空気が流れる。娘のため息が漏れる。(今適当に作ったシナリオだが、書いていて少しコワくなる。)そして数日後、治療者はそのエピソードを聞くことになるのだ。