2013年3月28日木曜日

精神分析と家族療法(11)

 本題に戻る。昨日のブログの「書きながら少し考えが進んでいる気がする。」といったあたりだ。
分からなくなることが分かることである
 家族療法の治療者(相変わらず、「家族療法家」と呼ばない。私がその中に入れないからだ。)は家族に起きている問題を知ることで、「ここが問題なんだ」というよりは、「こんなに複雑なんだ。」「ますますわからなくなってきたぞ」という体験を持つことかもしれない。これはもちろん個人療法にも言えることだ。最初は「結局こんなことね…」と思っていたことが分からなくなる。しかし本当に混乱してしまわない限りは、それでいいのだ。それが「分かる」ことに一歩近づくことにもなるのだから。
 先ほどの家族の例である。治療者は父親、母親、娘の言い分を聞いているうちに、それぞれの立場や気持ちがわかるだろう。家族で起きていることに「納得」し「さもありなん」と思うわけだ。父親のことを最初は暴君で身勝手な人間と思っていたのに、話を聞いてみると、そうなる事情も納得がいく。彼だって辛い人生を送ってきたんだ。人に怒鳴られて卑屈な思いをしたこともある。子供などにバカにされてたまるか。男性の治療者も「自分だってこの状況だったらこうなるかもしれない」、などと考える。同じことは、母親の話を聞いても、娘の気持ちを聞いても思う。それぞれに同一化することで、それぞれの言い分に一理も二理もあることに気が付く。実は治療者としてはこれが一つの出発点なのだ。
 家族の言い分をそれぞれわかるということは、家族の中で起きていることを、ある意味で見えにくくすることだ。つまり「彼が問題人物だ」と決めつけることが出来なくなるからである。どこに問題の原因を特定することもできない。それぞれの人生が(これまでの話とつなげると、それぞれが持ち込むマイルールも含めて)がんじがらめに絡み合っているのが家族である。
 そしてわからなくなった状態から療法家の心の中に何も生まれないのであれば、おそらく「話を聞く」以上の治療は進められない。傾聴して終わり、ということだ。もちろんそれだけでもいい、という場合もある。実際多くの面談が来談者の話を聞き共感を与えるだけで終わっていても、来談者の多くが面談に訪れるのは、ここの段階ですでに治療的な意味があるということだろう。
 さてこのわからなさが、精神の混乱状態と違うのは、おそらくこのわからなさは、むしろ精神的な安定へと向かうという点であろう。(ここら辺は読んでいる人も何のことかわからないだろう。講演などでこんなことを話したら、聴衆は居眠りをし始めるのである。)いつか田口ランディが書いていた。物語を読み終わった時に(人って、人生って)なんて不思議なんだろう。わからないんだろう、ジーン・・・という感動を覚えるのがいい小説だといっていた。
 健全な分からなさは、質問にあふれているということでもある。質問を投げかけることで、詳細をどんどん知ることが出来るからだ。そうすれば詳細がさらに明らかになり、さらに「人ってわからない」となる。しかしそれは基本的に快感である。それに比べて混乱状態は、「何がわからないのかわからない」という状態である。これは一言も発することが出来ない、精神的にがんじがらめの状態である。ここで例の「素朴な反応」ということも少しは意味を持ってくるかもしれない。
 つまりこういうことだ。家族のことをある程度わかると、わからなくなる。ポジティブな意味で。ただしそれ以降に生まれる素朴な反応や質問は、おそらく治療的な意味を持ち始めるのだ。
 この家族の話に戻ろう。わからなくなり始めた治療者はいろいろと素朴な反応をする。「娘さんは食事の時も気にするほどケータイが大事、というわけなんだ。私が子供の頃、ケータイなんてなかったしなあ。うちの息子もさすがにそこまでではないなあ。」「お父さんは、でもそんなに大きな声で娘さんを叱るだな。私にはそんなことはできないなあ。神さんも怖いし。」「お母さんはそこで、でも呟くという感じなんだ。はっきり言わないんだ。うちでははっきり言われるなあ。」などなど。(こうやって書いてみると、治療者はほかの家族との比較というよりは自分のうちとの比較をしている。案外そんなものなのである。というよりいざとなると最終的には自分自身の体験が参照枠になるというのは、結局は自分自身をどう振り返るかということであり、それは個人療法にも家族療法にも決定的になるというべきか。
 それはともかく、治療者はもっとわかりたくて、いろいろ素朴な質問をする。ケータイ世代を過ごさなかった治療者はこんなことを娘さんに聞いてみる。「ところでおかしな質問かもしれないけれど・・・・。どうしてケータイって食事の時間までチェックするほどに大事なの?」父親には、「もし娘さんに注意しても、ケータイをいじり続けるとしたら、どうなっちゃうんでしょうか・・・・」母親には、「小声でさえ、ご主人にそんなこというの、怖くないんですか?」
以上は単なる例であり、いくらでも質問はありうる。そしておそらくそれぞれの質問が、それぞれのメンバーにいろいろなことを考えさせるはずである。そしてその結果として「そうだよな。確かに言われてみれば・・・・。」と感じさせる分だけ、家族は変っていくのである。