2013年3月27日水曜日

精神分析と家族療法(10)

   書きながら少し考えが進んでいる気がする。家族療法とは何かという問題は、結局「認知療法との語らい」でも登場した例の「面談」の話に近づいていくのである。個人精神療法も、集団療法も、家族療法も、結局は人間がやること。そこに特別な技法とかはあまり考えない方がいい。そんなことを言ったら、集団療法学会や家族療法学会の偉い先生方に叱られるかもしれないが、例えばグループの一員であること、家族の一員であることは、実は日常的に起きている。私たちはそれを専門的に扱う以前から、その中に投げ込まれているのだ。だから結局こういう結論に近づいていくのである。
 日常的に起きないことなら、そこにある種の技術が成立する。例えば日常生活では誰かに薬を処方することなどありはしないから、それを行うためには薬物療法の知識や技術を一から学ばなくてはならない。しかしたとえばカップルセラピーなら、その治療者がうちに帰れば夫婦という単位の中に組み込まれてしまっている。またカップルセラピーのカの字も知らない人が、夫婦円満にやれたりしている。しかもその人がカップルセラピーのオーソリティなどよりはるかに立派な家庭人であったりする。そこが悩ましい問題でもあり、面白くもあるのだ。
 個人療法もグループも、家族も、私たちが日常的にそこでの活動に携わっているような活動の中から、治療的な要素を抽出して一つの療法にまで純化するというプロセスと考えるべきである。決して特別な療法がどこかで「考案」され「発明」されて上から降ってくるというわけではない。もしそのようなことがあればそれは大発見としてもてはやされることになるが、おそらくその効果は持続的ではないし、そのための状況設定も難しい。精神分析の盛衰にもそのようなところがあった。(ここら辺の話、例えば精神分析でフロイトが発見したことは、過去の文豪たちがその作品の中でとうの昔に見出して論じてきたのだ、というたぐいの話と少しだけ似ている。)ということで私にとっては家族療法も、治療者の持つ自然で「素朴な感想」をいかに用いるか、という話になってしまうわけである。

 他人から言われただけで変わる
 先に進む前にこの問題についても考えてみたい。どうして人は配偶者や家族から言われても耳に入らないことを、第三者から言われると大きな影響が生まれるのだろうか。これは家族療法の治療者の声がどのように響くかを考える際に重要である。
 先ほどの家族が面接に訪れることを考える。父親と娘のケータイをめぐるバトルは面接室でも起きるとしよう。娘に対するお父さんの話し方には権威主事的で威圧的なところがある。そこで治療者は言ってみる。「それにしてもお父さん、娘さんの話し方には、ずいぶん力がこもってらっしゃいますね。」(治療者としてはこんな言い方を選ぶのだ。)
 実は父親は家族から「お父さんはすぐ大きな声を出す」くらいのことはしょっちゅう言われている。彼自身も職場でも時々声を荒げることが起きていることを知っている。自分の弱点かもしれない、くらいの意識はあるが、やめる気にならない。ところが治療者に言われると「なるほど、そうかもしれない。気をつけなきゃ」となる可能性がある。
 私はこの一つの可能性として、その治療者声がそれだけ中立的であると感じられるという要素が大きいのではないかと思う。もちろん治療者の声がたまたま中立的に聞こえた場合の話だ。実際は治療者の発言は、かえって中立的に聞こえない可能性もある。「どうせうちのカミさんと結託しているんだろう」とか「同じ男だから夫の方を持ってんじゃないの」とか「どうせ大人の言うことなんか皆同じよ。」と思われてしまえば、ちっとも中立的に響かず、かえって歪曲されて受け取られる可能性もある。
 しかし仮に治療者の声が家族の外側からくる、バイアスの少ない中立的な見方に聞こえるとしても、それは父親の心にはまだ響かない可能性がある。それが正しい声、真実を突いている声に聞こえることが本質だ。そのために「中立的に聞こえること」は重要な要素となりうる、というだけなのである。
 ではどのような時に治療者の声は中立的で、正しく、本当らしく聞こえるのか?ここにはいろいろな要素が絡むであろう。父親がいつも心のどこかで感じつつ、気にしていたことに合致していた場合?たぶん。治療者のことを父親がひそかに心服していた場合?これもあるだろう。父親がその治療者にいつも「わかってもらえている」、という感覚を持てているから?これもありだ。しかしこれ以外にもそこには様々な要素があり、また偶発的な要素もある。何がヒットするかはわからない、という例のヤツだ。
ここで偶発的な要素と言ったが、患者さんは実にいろいろな声に左右されるということを私は経験上知っている。その声の主は、別に信頼している人でも、わかってもらっていると感じている人でなくても必ずしもないのである。これまで薬を飲んで調子が良かった人が、突然薬をやめてしまう。その理由を尋ねると、意外な話を聞くことが多い。「教会で牧師さんに、薬はやめた方がいいといわれたから」というのはまだいい。「近所のおばさんが、薬は体にとって毒だといっていた」とか「ネットで薬は怖いと書いてあったから」ということもある。これまで2年間医師のもとに通い、それなりの信頼関係が出来て、薬の効果が見えているにもかかわらず、人はどこからか「天啓」を受けてしまう。それを治療者は、あるいは自分も含めて予想できない場合があるのだ。皆さんの周囲にもいないだろうか?これまで謹厳実直で家庭思いだった人が、なぜか怪しげな人に洗脳されてしまう人が。