2013年2月26日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(15) 

 「解」を読み進める(13)

 KT自身の語る防止策を読むことで、ひとまず彼の主張が終わったものとして、私の感想をいくつか述べてみよう。まだ“解”には程遠いが、少しはまとまってきている気がする。
 KTの心の動きにはいくつもの病的、あるいは「普通とはいえない」傾向がみられる。しかし特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば・・・・。生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の無関心さobliviousnessである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が思い描く。秋葉原の事件の直後に、複数の患者が、KTの気持ちがわかると述べたこととも関連する。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行してしまったということだ。そしてそれは彼のゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連している。これは昨日のブログ(12)でも触れたことである。
 これに関連して、「解」ではこぐ最後の部分で、さらっと、しかし極めて重要な情報を伝えている。最終の章「反省の考え方についての補足」に触れられているエピソードだ。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。「私は学校の小さな部屋に閉じ込められ、次々と入れ替わる教師らに怒られ続け、『反省』しました。しかし半年後に私は、再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとっています。」KTはここで、自分自身は十分「反省」したが暴行を繰り返したことについて、「反省」したことこそが問題であったとする。それは問題を特定し、対策を講じることをしなかったからだという。
 なおこの暴力行為に至った経緯については興味深いので、少し長いが引用する。

 私がそのクラスメイトを殴ったのは、私が真面目にものを考えているときにちょっかいをかけてきて、私が「やめろ」という意味を込めて手で払いのけたものを無視して更にちょっかいをかけてくるその彼の間違った考え方を改めさせるために殴ったものです。今思えば、彼は私が考え事をしているとは知らず、ぼんやりと眠そうにしている私に絡んだ来たのだと思います。それを私は勝手に邪推をされていると読み、言葉で説明もせず、痛みを与えて相手の「間違った考え方」を改めさせようとしたのであり、完全に私の誤解でした。ですから、この時の私は「反省」するだけではなく、なぜ私は彼を殴ったのかを考え、原因を特定し、そこに対策をする反省をすべきでした。問題は山積みです。これは成りすましらとのトラブルとは異なり、「かっとなって」のケースなので、思いとどまる理由の有無は意味がありませんが、結局のところは、相手に嫌な思いをさせられるという条件に対して、その間違いを改めさせるための痛みを与える手段が出力されてくる条件反射を何とかしなくてはいけないのであり、中学生時点では、それが強化されてきた期間は半分の10年ですから、今よりもっと楽に上書きをしてしまえたかもしれません。
このKTの引用の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの中学時代にあったという殴打事件が「間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードは成りすましとのトラブルとは異なると言っているが、その動因をを一緒に説明している以上は、むしろ秋葉原の「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認、乖離されているのだ。
 しかしKTが実際は激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのだ、と説明し、その尋常でないほどの怒りをKTの病理とすべきかと言えばそうではない。通常の怒りは、それを直接起こした対象のみに向けられるのであり、しかもその相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかもその怒りによる相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。KTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は執拗でかつあたかも機械的に、無感動に行われているというニュアンスがある。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪性格のそれとみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す防止策も、反省内容もことごとく見当外れということになる。彼が中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいのものではなくむしろ、彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうことをも示唆しているのである。