2013年2月22日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(11) 

「解」を読み進める(9
 うーん、全然連載が終わらない。一向に「解」が見えてこないのである。まあ、そのためにこのブログを使って考えているわけだが。そろそろ内容が、繰り返しになり、飛ばし読みができるようになることを期待しているのであるが。しかしこの作業も、この「事件」でなくなった方々の供養の意味もあるのではないかとも思う。あの忌まわしい出来事を引き起こしたKTの心の流れを少しでも整理しようとしているわけだから。
 第14番目の章「人のせい」以降KTのモノローグがしばらく続く章があるが、その内容は精神医学的に興味深い。この数章で彼は、「事件」に至るまでの自分の考え方がいかに間違っていたかを反省している。要するに自分がいかに「事件」を引き起こすにいたったかについての弁明を試みているわけだが、これを読んでいて少し考えが進んだ。
 この数章に述べられる彼の主張は、自分が以下の3つの誤りをおかしていたと言うことである。

1.        KTが、「自分が悪いか、相手が悪いか」の二者択一式の考えしかできなかったこと。そして彼が結局はつねに「人のせい(相手が100%悪い)」にしてしまっていたこと。
2.        「相手の誤った考え方を改めさせるために、痛い目を見てもらう」ことに固執したこと。
 
3.        相手に対する不満を伝えることで、話し合いの場をもうけることなく、常に直接行動に出てしまっていたこと。

 もしKTがこれらの3点の誤りに気づき、本当に反省しているのなら、そしてそれが今後の彼の行動の変化につながるとしたら(とはいえ今後の彼の人生はもう「ない」はずなのだが)、それは画期的なことではあろうと思う。しかしそれではもし彼がこれらの誤った考えを持たなかったら「事件」を防げたかと言えば、それは別の話だ。しかしともかくも彼の言い分を少し検証してみる。
 まずKTは1.については、自分が常に母親から情報操作をされ、それ以外の考え方に触れることがなく育ったことを理由に挙げる。もしKTの記述が正確だとしたら、確かに彼の母親の態度は問題が多く、あからさまに彼に対して虐待的であったといえるかもしれない。母親は彼の行動に問題を見出した場合、「こちらに4分、向こうに6分非がある」というような考え方をせず、100%相手が悪いという考え方を取る人であったという。そしてそれに基づきKTを処罰したというのだ。そしてこれは2.にも関連することであるが、母親は息子の「誤った考え方を改めさせるために痛い目にあわせる」扱いを常にをKTに対して行なっていたという。それは例えば母親の料理の邪魔をしたときは二階から落そうとしたり、九九の暗唱を間違えた時には、風呂に沈めたりしたという。そしてその仕打ちをされたKTは考えたという。「自分が間違っていたからこのようなことをされるのだ。それを改めるしかない」。これを繰り返してきた以上、KTはそれを他人に施すことにも抵抗がなかったという。
 この部分を読んで私もある程度は納得した気がした。考えを改めるためにある種の懲罰や強制力を加えるという手段は、彼の場合にそうであったように、ある場合には有効なのだ。しかしその場合はそこで感じるべき恐怖や怒りや憎しみが解離される必要があるということなのだろう。そしてこれは上述の3の問題にもつながっていく。他人との関係で自然と持つ感情、すなわち理不尽さや不満や怒りを、私たちはある程度は相手に表明することで、その関係性が過剰なストレスとはならないようにする。対人関係とはそのような意味で力動的なものだ。自分の考えを他者に押し付けると、何らかの反応があり、それにより自分の態度や考えを変更せざるを得ない。そこに介在する重要な要素が感情である。相手の不満や怒り、時には感謝の念が自分の態度を変えるのである。
 KTの記述に何度も出てきて、そのたびに違和感を覚えていた表現、つまり「相手の誤った考え方を改めさせる為に痛い目にあわせる」の意味がここに少し明らかになる。少なくともKTはそうやって生きてきた。痛い目にあうことで、それに反発することなく、交渉することなく、自分の行動を変えてきた。そこに解離され、切り離されていたのはネガティブな感情であり、それが突出した形である日衝動的に表現されるのである。
 ここでKTの問題を少しはなれ、一般的な子育ての状況を考えてみたい。実はこの種の問題は実は常に起きている可能性がある。親は子供を叱る。子供はそれにたいていの場合服従せざるを得ない。問題は子供がそこで怒りや反抗心をもっていないかのように振舞い、また実際にそれを感じていない可能性がある。しかしそれは将来親に対する深刻な怒りや憎しみを生む結果となることが多い。そこで問題となるのが、先ほども少し触れた解離の機制なのである。そこで切り離された感情は、そのときは体験されずに、しかし別の機会に、心の別の場所で体験される。そしてそれは容易にはその人自身に統合されないのだ。