2012年9月26日水曜日
第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (5)
創造的な過程
ネットワークの自立性の表れとして、創造的な活動について考えよう。
例えばかのモーツァルトは、一人でいる時に頭に曲が浮かんでくるということがよくあり、それをコントロールすることが難しかったという。そしてそれらの曲は出てくるときは、勝手に自らを構成していくそうだ。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという。(Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。
かつて人気作家の村上春樹が自分の創作の過程について語っているのを呼んだことがある。いまだにそのソースを探し当てられないでいるが、確かこんな話だった。<要典拠>
「私にとっての創作は、頭の中の登場人物が勝手に動くのを見ているということです。それを私は見て、小説にしていくのです。そうするためには例えば一人スペインのどこかの宿屋に泊まり、どこからも連絡が来ないようにして小説を仕上げるのです。」
正確な引用かどうかはともかく、彼の言葉から読み取れるのは次のようなことだ。創作活動のプロセスを見ればわかる通り、私たちが創り出している作品の主要部分は、実は脳によって自動的に作られているのである。それはネットワークの自律性の一つの典型例なのである。もちろんそこに意識の関与がまったくないというわけではない。村上春樹だって、頭の中の登場人物がまったく勝手に動くに任せているわけではないだろう。その流れを整理し、順序を整えて、人に受け入れやすくしているのは意識の働きであろう。その章立てを考えたり、漢字を一生懸命思い出そうとしているときは、前頭葉が活発に働いているはずだ。ただそのもとになる素材はすでに自立的に脳で作り上げられているのである。
創造的な活動が、脳のどこの部分でどのように生じるかはわからない。私の知る限りそれに関する定説はまだない。ここからは私の想像であるが、これは脳の中の膨大な記憶情報の中から、それ自身の性質として自然に醸成されるものだと考える。少しわかりやすい例として、作曲を考えよう。ある長さのメロディーラインが浮かぶとき、それはこれまで記憶したことのあるメロディーの断片の繋ぎ合わせだったり、その変形だったりする。あるいはあるメロディーAの前半とメロディーBの後半の接合されたものかもしれない。その中である種の美的な価値を持った、つまりは美しいメロディーが、それ自身の持つ刺激のために意識野に浮かんでくる。人が聞いて素敵だというメロディーは、それ自身が私たちの快感中枢や扁桃核を刺激するのであろう。そしてメロディーラインの切断や接合は、それらの記憶の断片が存在すると考えられる大脳皮質の聴覚野で自然に、「勝手に」醸成されるのだ。
ところでこのプロセスはタンパク質の合成のプロセスに似ているといってもいい。生命は酵素を必要とし、酵素はタンパク質から構成される。ではそのタンパク質は自然の中から、自然そのもののはたらきによって生まれてきた、という仮設を打ち出したのが、オパーリンという旧ソ連の科学者である。ここからはwikipedia の力を借りなくてはならない。<要典拠。またかよ。>
オパーリンの説を推し進めたのが、1953年、シカゴ大学ハロルド・ユーリーの研究室に属していたスタンリー・ミラーの行なった実験で、「ユーリー-ミラーの実験」として知られている。難しい話は省略するが、原始地球の大気組成を作り出し、そこに放電を起こし、アミノ酸が一週間後にアミノ酸が生じていることを示したという。
もちろん脳の中で放電が起きたり、雷が落ちたりということは起きていないが、おそらく無数の知覚情報、思考内容の離散集合が自然に起きている可能性がある。これは仮説というよりは、こう考えないと説明できないものがあまりにも多いという意味では、半ば理論的に必然性を伴ったプロセスである。その典型が、夢の過程なのだ。