2012年9月27日木曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳-心理士への教訓

無意識=ニューラルネットワークに畏敬の念を持つべし

私の個人的な体験を書くならば、脳をニューラルネットワークとして理解することは、私の心に対する見方を大きく変えてしまった。私は本来精神分析家であるが、精神分析的な人間観に不足していると感じられた部分、精神分析を学んでいるだけでは腑に落ちない問題の多くは、ニューラルネットワークモデルの中に畳み込むことができたと考えている。それはこのモデルを絶対視することではない。ニューラルネットワーク自体にわからないことが膨大にあるが、それを一つの図式として採用することで、精神分析に対する疑問をより相対化してとらえることが出来るようになったと考えている。
 心理士は患者の連想を通して様々なことを耳にするが、精神分析的な理解ではそれらがどのような無意識を表現しているかに常に注意を払うことになる。特にその内容が、その理由は不明ながらもある種の強いインパクトを与えたなら、それをかなり無理をしてまでももわかろうとする傾向があるし、わからないことに後ろめたさを感じるのだ。しかしネットワークの自律性が教えてくれるのは、私たちは無意識からのメッセージをあまり読み取ろうと頑張らなくてもいい、もう少しゆったり構えてもいい、ということだ。私たちの連想は、夢は、ある種の偶然性と何らかの必然性を伴って創造される。そこに最初から意味などないということも多いのである。
たとえとしてある作曲家の心に浮かんだメロディーを考える。その旋律が細部にわたって何かを象徴していると考えるだろうか、あるいはそれは重要だろうか?
 ところで冒頭に私は、さりげなく無意識=ニューラルネットワークと書いたのにお気づきであろう。私はこの章で「無意識的」という表現は何度か用いているが、「無意識」という用語は避けてきている。「無意識的」、というと「気がつかないうちに」、という口語的な表現ということで済まされるが、「無意識」となると精神分析の概念になってきてしまうので、混乱を避ける意味でもこれまでは用いていなかったのだ。
 では改めて、無意識とニューラルネットワークとの関係は?ニューラルネットワーク的には、この答えはある意味では簡素で、同時に複雑にならざるを得ない。簡素な考え方は、基本的にはニューラルネットワークの自律的な活動の一部の、意識化された部分を除くすべてが無意識ととらえるという方針だ。ただしこれは意識されない部分としての無意識である。これは「無意識的」という形容詞がつく活動を意味する。
 ところが精神分析的な「無意識」(こちらは「」付にしよう)は、フロイトのいわゆる「構造論的な無意識」ということになり、それがネットワーク内に存在するかどうかも不明になる。フロイトの考えた「無意識」は、そこに意識化したり直面したりすることに抵抗を覚えるような心の内容を抑圧しておく場所、という意味であるが、そのような場所がネットワーク上に存在するかと言えば、かなり難しい問題となる。抑圧を根拠づける理論もネットワーク的には今もって不明と言わざるを得ない。それよりは私は解離の概念を用いて説明することが多くなっているので、それは後の章を参照してほしい。
結局私が心理士に対して伝えたい教訓は以下のとおりである。無意識は広大でそこで様々な自律的な活動が生じているような場である。それを説明したり、推測したりするには、無意識はあまりに深淵であることが多い。ニューラルネットワーク的には、抑圧の機制をうまく説明できない以上、患者の症状や連想についてその解釈の作業にエネルギーを注ぐよりは、それらをそのまま受け止め、それについての連想を促し、それに共感することを旨とするべきであろう。それがいかなる洞察を導くとしても、それが最初のステップになるのである。