2012年9月2日日曜日

第1章 報酬系という宿命 (2)

報酬系と想像力

報酬系が「イエス」と答えを出す行動を私たちは選択する。これ自体は一見わかりやすいことかもしれない。しかし報酬系にどうしてそのような機能が備わっているのかという問題は、決して単純ではない。
 次のような問題について考えよう。報酬系はどうして、将来味わう快を知ることができるのだろうか?今現在はそれを味わっていないのに。そしてその将来の快を求めてどうして今の苦痛を克服することが出来るのだろう?
 例えば砂漠の向こうにオアシスがある時、私たちはどうやって炎天下の道を歩くという目の前の苦痛に打ち勝つことが出来るのか? (以下略)

 このような疑問の根拠がピンとこない人には、次のように考えていただきたい。私はこれまで、報酬系を一種のスイッチのようなものとして描いてきた。脳の中心部近くに被蓋野から側坐核にまで至る経路があり、そこが刺激されて快感が生じると「イエス、そうすべし」という答えを出すという仕組み、と説明した。しかしこのような装置は必ずしも将来の報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。砂漠を歩く男は、実際に水にありついたわけではない。実際の快感はまだ得られていないからスイッチは入らないはずなのである。目の前には延々と熱砂漠が続いているだけだ。すると報酬系が「そうすべし」と命じているのは、実は炎天下を歩いていくという苦痛に満ちた行為なのである。
  このことからご理解いただけると思うが、人間や動物の行動を説明するためには、実はこのスイッチオン、オフ式の単純な報酬系のモデルだけでは全然足りないことになる。そこで問題になるのは、実際の快ではなく、先取りされた快感なのだ。報酬系は、実際の快だけではなく、将来の快を「検出」し、「味見」する能力を持つ。その快の値が大きいものと予想されると、それを将来得るために現在の苦痛を選択するような機能を備えているのである。そしてそこに絶対に必要になるのが想像力である。炎天下を何時間も歩いた末に手に入る水を、どこまで生々しく想像できるか。目の前のコップに注がれた冷たい水なら、飲む前から飲んだ気分を想像できるだろう。しかし目標が将来に遠ざかれば遠ざかるほど、私たちは想像力をたくましくしなくては、自らの報酬系を刺激することはできないのである。
 ただし報酬系はある抜け道を持っている。それは本能的、ないし反射的な行動である。生命の維持、ないしは生殖活動に必要な一定の行動パターンが遺伝子に組み込まれている場合、報酬系はそれ自体を遂行することを快感と感じるはずである。そしてそれは前頭葉機能に基づく想像力を必要としないのだ。
 例えばヒメマスの親は、産卵の後長時間にわたり、一生懸命砂や小石を卵の上にかけてその卵をカモフラージュするという。なんという子供思い、いや「卵思い」の親だろうか?しかしもちろんそれは、ヒメマスが自分たちの卵が天敵に襲われることなく将来孵化するのを想像してその達成感を先取りし、現在の苦労に耐えているわけではない。その一連の行動が自然に起きてしまうようなプログラムがヒメマスの中枢神経のどこかに必ずあり、そこが活動しているのだ。報酬系はそれを途中でやめる根拠がないくらいには興奮しているはずである。そしてこちらは想像力抜き、下等動物でも行える行動というわけである。