2012年9月1日土曜日

第1章 報酬系という宿命 (1)


どうして報酬系なのか?

本書の最初の章は報酬系についてである。なぜ「脳科学と心の臨床」について論じる際に、報酬系の話が出てくるのか?それは報酬系ほど私たちの心のあり方を規定し、しかもそれをそうと気づかれないものもないからである。私は精神分析家であるが、無意識が私たちの心のあり方をさほど決定しているとは思えない。無意識はカオス的だからだ。しかし報酬系はちがう。私たちはおのおのが脳に持っている報酬系が「イエス」と言わない行動を選ぶことはないからである。
 報酬系が「イエス」という回答を与えるものは、人それぞれに違い、また同じ人でもその時々で異なる。そしてかなり多くの条件を要求してくる。たとえば今朝家を出る時に着るものを選ぶ際、「これだ」と思うものに決めるまでには意外と時間がかかったのではないだろうか?あるいは「これでいい」という髪型に決めるのにも時間がかかることがあるだろう。(事情で髪形を決めることが出来ない男性の方には失礼!)そして時間がかかったという事は、あなたの報酬系がそれだけ細かい条件を出してきたことを意味するのだ。あるいはレストランでメニューを前にして、目に留まったものを即座に注文する人などいないだろう。たいていはしっかり報酬系と相談しながらおもむろにドリンクなどからオーダーをするはずだ。
 さて報酬系とは脳のどこにあるのか。ここでそのありかを紹介しよう。ネットから採取できる一番きれいな図を選んだ( http://ja.wikipedia.org/wiki側坐核 )。
脳の中心部に、VTA(腹側被蓋野、青の部分)とNucleus Accumbens (側坐核、赤の部分)が見えるだろう。この両方を結んでいるドーパミン作動性の経路が報酬系と呼ばれるものだ。ドーバミン作動性、とはドーパミンという物質を介して信号が伝えられる神経という意味だ。人は、というよりは動物はこの報酬系が刺激されるような行動をとるようになっている。報酬系とは結局「心地よい」という感覚を生むための装置、ということになる。

自分の心がわからない理由 

さて報酬系が「イエス」という条件は、その時々でかなり明確に決まっているものの、それが「なぜ」そうなのかをわかることとは別の話である。というよりは報酬系が何を、なぜ「イエス」と判断するかは本人にもわからないのが普通なのである。
 たとえば 夏は好んで「すいかバー」を食べる人に「どうしてすいかバーなんですか?」とたずねたら、「あの種のチョコレートのプチプチが美味しいんです」と答えるかもしれない。でも「あの種のプチプチが気持ち悪いから、すいかバーは嫌いです」という人を説得することは少しも出来ないだろう。しかも「種のプチプチが好き」というのは、すいかバーを食べる理由のほんの一つに過ぎない。理由を数えだしたらいくらでもあるだろうし、それらの理由があるから、すいかバーを食べると言うわけではない。すいかバーのイメージを脳にインプットして(というより思い出して)、あとは報酬系が「イエス」と判断してくれる、というそれだけのことなのだ。

報酬系の働きは、すいかバーを食べるかどうか、という比較的単純な例以外にも、もっと複雑で連続性のある行動についても同じように働く。あるテレビ番組で、山登りの趣味を持つ人々にインタビューをしていた。
 「あなたはどうして山に登るんですか?

 人々の最初の反応は当惑である。そして口を開いて「そうですね・・・。なんとなく。」とか「自分でもわからないんですが…頂上に立った時の一種の達成感ですね。」あるいは「山登りは私の人生そのものなんです。」と、質問とは方向のずれた答えが返ってくる。
 スイカバーの質問にしても、山登りにしても、人は質問に答えることで本来言葉にできないことに無理に理屈をくっつけているということがわかるだろう。人は報酬系に従って動いているということをしばしば隠したくなる。それが「心地よいから」という理由はしばしば非倫理的に聞こえたり、非合理的だと判断されたりする。だからもっともらしい理屈をつけるのだ。

ところでよく、「人は感情の動物である」、という。理屈ではない、というわけだ。それもあまりいただけない説明の仕方である。「どうして山に登るのか?」に感情、というのはあまりピンとこない。突然仕事をやめて起業しようとするのが、感情のせいとも言えない。むしろそうすることが自分の報酬系を刺激するからだ、という方がよほど近い。