2012年7月8日日曜日

続・脳科学と心の臨床(42)



良識ある精神科医の言い分はこうである。

「私は彼女がDIDであるかにはこだわりません。彼女が診察室内に持ち込んでくるものを扱うだけです。彼女がBさんとして登場しても、その言い分を淡々と聞くまでです。ただ私は彼女がその日はAさんではなくてBさんと名乗っているということには特に注意を払いません。Aさんと接するときと同様に接します。」

まずこの言い分にはそれなりの治療的な意味合いがあることを認めたい。というのもこのような時、Bさんと同時にAさんも治療者の話を聞いている、という事態が生じている場合も少なくないからである。DIDに関する臨床が教えてくれるのは、複数の人格が同時に「覚醒」している可能性である。何日か前に述べたDIDの例は、BさんがAさんの言動を背後で聞いていた、というものであった。一人の人格に対応している姿を、別の人格が見ているということは確かにあるのである。とすればBさんが現れても依然としてAさんとはなす、という方針にもそれなりの意味がある。
ただし今挙げた例のように、いつものAさんにかわってBさんが出ている場合には、Aさんが主人格ということになるが、主人格はその名とは裏腹に隠れてしまい、話を聞いていない場合のほうが多いのだ。パターンとしては「副人格」Bさんのほうが、Aさんの後ろでいざとなれば出てこれるように常に控えているということの方が多いのである。だから「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針は、肝心のAさんが不在であるために空振りに終わることが多い。するとやはりその場合、Bさんに対する語りかけは「Bさん、ですか。これまでAさんを見ていた方ですね。どうなさってましたか。」なのである。
もし治療者が「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針を貫いた場合はどうなるか?それはAさんがこれまで周囲の人々と同じかかわりを持つということに過ぎない。つまり治療的なかかわりとしての特色をなんら持つことができないことになる。

ところで良識ある精神科医の態度は何に由来するのであろうか?それはおそらく「治療者として患者の操作には乗らない」というメンタリティーではないか?「患者が演技をしているのではないか?」というのがこれらの精神科医の考え方ということになるが、そこには「患者に決してだまされない」という信条がある。しかし臨床家としてむしろ大事なのは、患者のストーリーに乗っかってみるという余裕なのである。