2012年7月30日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (63)

愛着と脳科学

ショアにあれだけ吹き込まれると、もう次のテーマは「愛着と脳科学」しかないじゃないか!!実はこれには素晴らしいソース本がある。私が強引に書評した「愛着と精神療法」デイビッド・J・ウォーリン著、津島豊美訳 清和書店である。去年の分析学会でこの本を立ち読みし、惚れ込んだ私はしかしそのあまりの高価さ(5800円)にたじろぎ、そこで書評することを条件に献本してもらったのだ。(それにしても550ページにもなる立派な訳書をものした津島先生には頭が下がる。)

それはともかく、なぜ愛着と脳科学なのか。考えてみよう。脳は生まれたときもっとも未発達な臓器だ。たとえば腎臓も肝臓も心臓も皮膚も、サイズは小さいが大人の体と類似の機能をしっかり営んでいる。しかし脳の機能は、その生理学的な機能や自律神経系統をつかさどる脳幹をのぞいたらかなりゼロに近い。だって赤ん坊は一言も言葉を話せず、理解もできず、何を見ているかもわからず、ホーントに何にもできないのだ。そして赤ん坊を保育器の中に入れて食物を与えるだけでは脳は永遠に育たない。養育が決定的な影響をもたらすのである。そしてそこで大事なのは、母親から優しくなでられ、暖かな声をかけられ、見つめられ、そしてそのような環境においてさまざまな新しい刺激を受けることなのだ。
ここからは私もよくわからないので、考えつつ書くことにする。
私たちが安定した心で社会生活を送っているとしよう。心はおおむね満ち足り、特に不安にざわつくことなく、日常の仕事をこなし、余暇を楽しみ、休息をとる。その間脳はその局所が勝手に興奮して余計な信号を流し込んでくることはなく、そのせいもあって快感中枢は、極めて緩やかながら刺激されているはずだ。脳にそのような環境が出来上がっているという風にも考えられる。いわば安定した心という現象が生じるための基本条件というわけである。

ここで局所的な興奮がないと言ったが、これはどういう意味か? 常に大脳皮質の感覚野が自発的に興奮して余計な信号を流し込んできたり(幻覚体験)、青斑核が興奮して不安を引き起こしたり(パニック発作)、ほんの少しの刺激に扁桃核が刺激されて恐怖の感情が湧いたりする(フラッシュバック)ことはない。脳は慣れ親しんだ感覚入力(たとえば好みの音楽、アロマ、いつもの散歩コースの景色など)、新奇な刺激(ドラマの思いがけない展開、好きな歌手の新譜、いつもとちょっと違った散歩コースの景色など)に反応して、あるいは親しい人との触れ合いを通して、あるいは食事や休息により快感を味わい、それが生きる喜びを生む。
どうしてそのようなことが可能なのだろうか。それは脳という巨大な神経回路の興奮のパターンが安定したものとして出来上がっているということなのだ。ちょうど空気を構成する気体の無数の分子が構成する大気の在り方が、その場所の穏やかな日差しやそよ風を生むように、脳の神経回路もその穏やかな興奮の仕方をプログラムされ、覚えているからだ。ではそのプログラムはどこからくるのか? それが生後数年を通して行われる養育なのである。その時に形成された脳の神経の興奮パターンがその人にとってのデフォールトとなるわけだ。(もちろん将来精神病をやんだり、もともと脳の配線に異常があったりする場合には、どんなに養育が行き届いたものでもこの環境が形成されない場合もある。)
こんなイメージでもいいかもしれない。心が豊かな土壌を持つ畑であるとする。最初に耕し、肥料を撒く作業は赤ん坊一人ではできない。赤ん坊はいわば土そのものであり、それを耕し肥料を与えてくれるのは母親なのである。しかもその畑が肥沃になる機会はただ一度しかない。それは赤ん坊という名の真新しい土の時である。誤った肥料を与えらえ、誤った耕し方をされた土地をその後に改良することは至難、というより不可能なのである。(ここの土地の例、全然不必要だったかもしれない。あとで削除。)
No Title (3)


My psychoanalytic training began in the spring of 1993 when I was formally accepted to the Topeka Institute for Psychoanalysis in the U.S., which was six years after I got to this country. There were things to be done before the training. First, I needed to settle down and form a basis for my living: it takes a solid source of income to maintain myself throughout the training. As Dr. Okonogi mentioned that it takes a long time to be formally trained as an analyst, I thought that I should not make any definite plan to go back to Japan in the near future. (Being single and ambitious, I could afford to make such an audacious decision.) I thought that I needed to be licensed as a physician first all, before even attempting to get into the analytic training. After I moved to the US in 1987, I spent year and a half at the Menninger Foundation as an “international fellow,” a sort of medical student-like status, while getting acculturated to the new environment and cramming frantically for the medical examination for FMG (foreign medical graduates). After I passed the test in 1988, I began my psychiatric residency training in 1989, at Oklahoma Medical Center for the first year. I took this opportunity to invite my fiancé in Japan to the US to get married. I joined the residency program at the Menninger Foundation from second year on and completed it in 1993.
If I am asked about the toughest year in my life, it was when I was a first year resident in Oklahoma City. I was in a rotation for the internal medicine, not knowing anything about the medical acronyms scribbled on the charts, totally at a loss for patients talking to me like gun fires in African American accent. I was lucky enough that any of my patients reported to the local medical board that a foreign physician is in charge of patients’ care while comprehending only a fraction of what his patients are talking to him, but still pretending to be capable of his care.