2012年6月2日土曜日

続・脳科学と心の臨床(9)-1


その後のチビはなんと、”critical but stable”な状態だ。一日二口、三口ほどの食事。立ち上がることもできずに、彼女は根性で生きながらえている。その生命力に驚く。私が時々声をかけると、尻尾の根元の筋肉が動いていることがわかる。「振っているつもり」なのだ。




精神分析的な無意識の見直し
BLの研究のこれ以上の詳細を解説する事が本書の目的ではない。これはミラーニューロンの発見にも言えることであるが、私たちが心のあり方を考える上で、これらの研究結果はある種当たり前のことへの確証を与えてくれているのであり、そのことの理解こそが重要なのだ。
BL
の実験が示す事柄が見直しを迫るのが、精神分析的な無意識の概念である。無意識はフロイトが100年以上前に提唱した精神分析の根幹に位置する概念である。フロイトは無意識に様々な欲動や願望やファンタジーが存在すると考え、それを精神分析療法により自由連想を通じて表現し、解放することが治療であると考えていた。この無意識の概念は現在でもそれが真っ向から否定されることはなく、精神分析の分野では依然として重要な意味を持つ。ただし分析以外の心理療法、たとえば認知行動療法などでは、無意識を実体化したり、そこを病理の源泉とみなすような傾向は影を潜め、その概念をバイパスし、自動思考、スキーマ、といった「意識外」の心の働きとして言い表すにとどまっている。
BL
の実験が示唆しているのは、いわば心の働きを意識的な活動に先立つブラックボックスにより始まるものとしてとらえているところがある。そのブラックボックスとは結局脳、ということになる。脳が活動を開始した後に意思が現れたり、創造的な活動が生み出される、というわけだ。ではそれはフロイト的な無意識とはどう違うのだろうか?
そもそもフロイトの無意識は意識化することに抵抗のある事柄が抑圧された結果として生まれたものである。だからこそそれは形を変えて、すなわち症状や、過ちや冗談などの形で表現されることを選ぶのである。すなわち無意識と意識とを分かつのは、抑圧という名のバリアーである。無意識内容は、たとえば象徴化、という変形を受けて意識内容に上る。
それに対してBLの示す脳と意識的な活動とにその種のバリアーを必ずしも想定する必要はない。BLの実験において「さあ、ボタンを押そう」という意思が生まれる際、先立つ脳の動きはそれを準備するという役割を追う。モーツァルトが「真夏の夜の夢」が頭から流れ出るままに大急ぎで楽譜に書き写した時、彼は無意識の生み出したものを意識し、追認したに過ぎない。ブラックボックスから意識的な活動に移行する際に特に一律に「変形」は考えないのだ。ただし意識的な活動は脳の活動を「自分の生み出したもの」(行動を行うという決断にしても、楽曲にしても)と思い込んでいる。いわば脳の活動が主であり、意識的な活動は従であり、一種の錯覚に過ぎないという考え方すら成り立つ。
このような心のあり方を一番うまく表しているのが、別の書でも紹介した前野隆司による「受動意識仮説」という理論である。前野氏の代表的な著書(2004)で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。

どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方があり、それは意識を持っているというのが一種の錯覚であると理解することだ。私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、あたかも能動的な体験として感じられているだけであるのである。
 「前野先生の心の理論を一言で言うと、それは『ボトムアップ』のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)」
「そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる『トップダウン』式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。」(以上「」部分は拙書「続・解離性障害」(岩崎学術出版社、2011)より抜粋。