2012年5月28日月曜日

続・脳科学と心の臨床(7)


いや「『想像』するわけではない」、というのは言いすぎかもしれない(と、さりげなく昨日書いた文を修正。)人の痛みをわかるという上で、想像は重要な要素であろう。しかしそれ以上のもの、あるいはその想像を生み出す生物学的な基盤となるものがミラーニューロンという形で私たちの脳に備わっているのだ。
想像以上の機能を果たすミラーニューロン、ということについて説明するときに私がいつも持ち出すのが、言語の習得のプロセスである。たとえば英語のRLの発音の区別がつかない日本人は多いが、それは私たちが思春期以降に外国語として英語を習得する場合が圧倒的に多いからだ。語学として勉強する英語の発音は、教室で先生の出した音をまねることから始めなくてはならない。これはミラーニューロンをほとんど介さない習得の仕方だ。中学1年生を前に初めての英語の授業でRの音を出す練習をするとなると、生徒はその音がどのように出ているのかを頭の中でいろいろ想像する必要がある。それでも足りないと、英語の教師はそれこそ口の中で舌の先をどこに持って行くかという解説を具体的にする必要が生じる。これはこの時期にはすでにミラーニューロンが活用できない時期になっているからであると考える。
 しかし幼少時に習得する外国語は全く異なったプロセスを経る。生活の中で聞いたRLは模倣しようという意図を介さずに舌先から出てくるだろう。ミラーニューロンの働きを考えることなくこのようなプロセスを考えることなど出来ないのである。
面接者への教訓
ミラーニューロンについて知ることは、共感ということを考える際に一つのヒントを与えてくれる。表題に「他人の気持ちは分かって当たり前」と書いたが、これはもちろん少し奇をてらった書き方だ。いつも私はバイジーさんたちに「人の気持ちなどわからない、わかったつもりになってはいけない」と言っている。だからこんなことを言うと「ではどっちが本当なんだ!」と言われそうだが、どちらも本当なのである。
ミラーニューロンが働くのは、私たちが他人の意図を読み取ったと思えた時である。(言い忘れたが、ミラーニューロンはたとえはサルが他のサルや人の行動の意図を把握したときに興奮する。パントマイムにはサルのミラーニューロンは反応しないことが知られているのだ。)その時はそれを実感と共に感じ取ることが出来る。しかしそこには読み違えが生じるかも知れない。映画のシーンを見て涙ぐんでいる人を見て、自分もジーンと来たとしよう。でもその人は映画が退屈でちょうどアクビを噛み殺したせいで涙を浮かべていたのかもしれない。そうするとこれはミラーニューロンの誤作動と言うことにもなる。それに人の行動はさまざまな動因や目的を含むことが多いため、いくらミラーニューロンを備えていても、他人の心の中をすっかり写し取ることなど出来ようもない。すると思考の方向性としては、こうなる。「他人の気持ちはわかって当たり前なのに、どうして私たちはここまで人を誤解するのだろうか?」すると「人の気持ちなどわかったつもりになってはいけない」という主張とあまり変らなくなる。
ミラーニューロンの話に乗せて私が主張したいのはこういうことだ。ミラーニューロンは、目の前の他人の意図やおかれた文脈を理解し、実感することを助けてくれる。その意味では来談者の話を聞きながら面接者がもらい泣きをしたり、一緒になって腹を立てたりすることは自然に起きていい。精神分析ではそれを「逆転移」と読んだり、「自分自身を客観的に見られていないからだ。ブンセキが足りない」、と言われたりするかもしれないが、そんなことはない。要はそれを行動化せずに用いることだ。私は常々考えている面接者の備えるべき「探索子」や「受信装置」のようなものがミラーニューロンに相当するのではないかと思う。人の気持ちになった時に振れる怒りや悲しみの針。それを用いることはある意味で的確に治療を進行させてくれるだろう。例えそれが「誤作動」であっても。来談者が悲しい話をしていてこちらのミラーニューロンがその悲しみを捉え、ふと見ると来談者は少しも悲しそうに見えなかったとしたら、そのギャップもまた何か重要なものを示していることになる。