2011年8月23日火曜日
「母親病」とは何か?(11)
ライバル意識について書くつもりだが、これもよくわからない。私が直接体験としてわかるのは、父息子関係である。私は息子をライバルとして意識することがある。これは彼がごく小さいころから起きていたことだった。神さんと深い関係にある男性という意味では私と息子は同格ということになる。人間とは、というより生物とは不思議なもので、自分と条件が重なっているほかの存在にはきわめて感覚が鋭敏になるように出来ているらしい。息子が小さいころは自分が小さいころと比較すると共に、息子がやがて成長したと想像したイメージと今の自分とを比較する。年の差などは関係ないのだ。人は基本的にはひがみやすく出来ているのだろう。比較して負け、取るに足らない存在と感じるのはたいてい自分のほうである。それはたまには息子に「勝つ」こともある。でも今度はその親たる自分の胸が痛むというわけだ。結局親が子供をライバル視していいことはひとつもない。しかしフロイト的にいえば、そのライバル関係に持ち込んでくるのは息子、ということになる。母親を独占しようと思ったのにそれに邪魔をしてくるのは父親のほうだ、というわけだ。これはどっちもどっちというしかない。関係性の問題だ。
さて母娘関係。それはそれで複雑だろう。ある女性の患者さんが娘に優しくすることの複雑さを語っていた。やさしくしようとした時、その当の娘に嫉妬するという。「どうして自分は母親に優しくされなかったのに、この子は母親(つまりは自分)に優しくされなくてはならないのだろう。」体験したことのない人には複雑でピンとこないような体験でも、当人にしてみれば深刻だろう。もし似たようなメカニズムが働いた場合、母親が娘にかける一言一言は二重、三重の意味を担うことになる。娘としては母親が自分のためを思ってしてくれること、かけてくれる言葉を全面的に信用できなくなってしまう。
それにしてもこのシリーズ、いつ終わるのか。書いていてもこの問題を掘り下げられた気がしない。だからやめられないのである。