再び「津波ごっこ」に戻って
最後に津波ごっこに話をもどそう。こんな記事を紹介した。
・・・「津波がきた」「地震がきた」の合図で子供たちが一斉に机や椅子に上ったり、机の下に隠れる。・・・児童心理の専門家によると、子供たちが地震と津波の衝撃を遊びを通じて克服しようと格闘しているのだという。(・・・の部分は中略)
子供たちが津波ごっこに興じるのはなぜか? おそらくはっきりしたところは誰にも分からないだろう。「衝撃を遊びを通して克服しよう」というのはオトナの理屈づけであろう。もちろんその可能性は否定しないが、「どうして人は鬼ごっこやおばけ屋敷を好むのだろう?」どうして人は殺人がつきもののミステリー小説を好むのだろうか?」などの問いにむしろ近い気もする。鬼ごっこは人間が邪悪なもの、精神分析的には悪い内的対象との関係をマスターするために行う、とでも言うのであろうが、真相はわからないのである。
多分人間は適度のスリルを好むのであろう。どこかで読んだ研究だが、人の体験はノルアドレナリンの分泌と共にドーパミンの分泌が伴う時にそれを求めるようになると聞いた。(急いで出典を調べなくてはならない。)つまりある体験はそれが快楽的な部分を併せ持つことで人はそれを遊びに取り入れ、繰り返し行うようになる。おばけ屋敷も、津波ごっこもそのような要素があるのだろう。津波ごっこが親しい友達どうして行われることで、それは快楽的な要素、楽しさを付与される。それはちょうど精神科的には安全な環境での直面化や暴露療法に意味があるという原則に見合うもののように思う。そして何が楽しいのか、ということには文化的な要素が大きく関与してくるはずだ。お化け屋敷もキャッキャ言いながらまわるか楽しみの部分が生まれるのであろう。津波のことを話すのは必ずしもタブーではなく、笑って再体験してもいいのだ、という雰囲気の中で行われることで、陰惨で死のにおいがこびりついた体験からスリルと興奮の伴う体験へと変わるのだろう。さもなければ津波で家族を失った子供等は、津波のことを一切口にせずに過ごすことになりかねないのだ。
もちろん津波ごっこに参加する子供は様々だ。津波が実際に他人事で、身内や友達に犠牲者は一切出ず、その遊びでスリルだけを味わう子供がいる。他方では津波により友人を亡くした子供がいて、しかしそれを遊んでいいんだ、という意味を与えられたことで改めて想起して克服する子供もいるのだろう。その子はきっと躊躇しながらの参加になるだろう。そして津波に実際に飲み込まれそうになったり、目の前で親族が波にのまれるなどして、深い外傷を負った子供は、津波ごっこの際には逃げるようにして遊びの輪から外れるかもしれない。人の集団とはそんなものだろう。人の行うことはそのように、ある人にとってはトラウマの解消につながり、ある人には再体験の可能性を有しつつ営まれていく。専門家はそれにやや細かい視線を当てて様々な可能性を探りだすことを仕事をするのである。そしてそれによりクラスの津波ごっこで傷を負いかねない子供を守る可能性も生まれるのであろう。