2011年4月29日金曜日

勉強嫌いの精神科医

私は渡米した際には、基本的には日本の平均的な精神科医のあり方に近かったか、やや新しいものに関する勉強を怠るというタイプの医師であったと思う。すなわち「臨床はそれなりにやるが、精神医学の勉強はその本質にかかわらないから、あまり必要としない」と考えていた。これは60~70年代に学園紛争の波に呑まれた一部の精神科医の間に広がっていた空気であり、私も卒後はそれに暴露されて不勉強の口実に使った。そしてそれはまた博士号をとるこ矢研究論文を書くこと、学会発表をすることへの否定的な考えにもつながっていた。
この種の空気に染まると医師は驚くほど不勉強なままに臨床経験だけを重ねていき、しかもそのことに気がつかない。私も渡米した当時は、医師として4年も経ったのだから、大抵のことは知っているであろうと思っていた。そこで当時のECFMGという試験の対策用の問題集を買い求めた。ECFMG(今は別名に変わっている) はアメリカ人の医学生が受ける国家試験と同レベルものを、私のように外国の医学部を卒業した医師が受けるように作成したものである。世界全土で実施し、日本でも東京が会場となり、年に二回実施されていた。アメリカで医師免許を獲得するためにはまずはこのECFMGに合格しなくてはならないので私もその受験勉強をしたのだが、内科、小児科、外科、などなど各科がある中で、他の科はまだしも、精神科の問題集だけは楽勝だと思っていた。しかしこれがさっぱり出来ない。それは端的に、精神科医になってからあまり教科書的な勉強をしないということを意味していたのだが、そのこと自体の自覚が私にはなかった。
ちなみに私はこのECFMGにも日本に滞在していたころから実は数限りなく受けては落ち続けて、パリ留学中もパリ会場で受験しては落ち、渡米して一年目にようやく合格したのだが、まあ私が試験に落ちる話はもういいだろう。
アメリカで晴れて医師免許を取得して、メニンガー・クリニックで精神科のレジデントとして働き始めたのだが、何しろ学科の授業が週に二日はある。そして4年間のレジデント教育のうち、第2,第4学年には、PRITEという模擬試験が行われる。これは実は専門医試験と同じフォーマット(すなわち実技と学科)であり、そのためにたくさん勉強を強いられるのである。そして卒業してから2年して受け始める専門医試験、これが曲者であることはすでに述べた。
それに比べて日本の精神医学教育は、少なくとも国のレベルで定めているものとしてはゼロに近い。卒業して精神科医になったら、所属先の医局でクルズス(少人数の講義)という名の教育は受けるが、それで勉強は終わり、というところがある。それに試験という形でチェックされない知識というのは、多寡が知れている。(ちなみに現在の精神科の専門医制度は、この部分を変えようとしているのであり、ある程度の成果は出ているかもしれない。)
ここまでで長文になりつつあるが、私が言いたいのは、そのアメリカの精神医学教育の中の主要なものとして、精神科の症候学と診断学が当然含まれるということだ。いや、それが大部分といっていい。日本の医師のように「診断なんて・・・・DSMなんて」と言っていられない。そしてその為の標準化されているテキストがある。それがDSMというわけである。
さて30歳代のはじめに米国に渡った私は、かの地で精神科の臨床をや利、それで生計を立てるためにこのレジデントトレーングを経たわけであるが、30歳を過ぎても勉強と試験を繰り返すことについては、基本的に大嫌いだった。診断基準などを覚えこむことも苦手であるし、先述のとおり治療の本質にはかかわらないこと、という思いがあった。「診断で患者さんを治せるか!」などと嘯いていたものである。しかし嫌々ながら専門医試験を受け続け、得たものは非常に多かった。精神の問題は奥が深く、実に様々な様相を呈す。それはある程度までは分類できるが、それ以上は個人間のバリエーションが大きく、またいくつかの問題が重ね着状態になってその人の問題を形作っている。患者を前にして自分が何を扱っているのかを知ることでしか、それをどのように治療すべきかということは決まってこない。というよりはどのような治療をするべきかを決めるために必要な手段として、診断があるのである。私たちが疑問点を明らかにし、好奇心を満たすというだけのために診断が存在するのではないということ点は非常に重要である。
これは不思議な現象なのだが、ある患者さんがかなり置いて訪れ、その臨床像を忘れそうになっている時に自分の過去のカルテを読み返す場合、一番さがすのは、「診断」の部分なのだ。過去に自分がその患者さんと会い、アセスメントを行い、何を結論づけたかのエッセンスは、一語の診断に込められていると言っていい。昨日のブログで「診断とは医師の間のコミュニケーションの手段だ」といったが、まさに過去の自分とのコミュニケーションを行うようなものなのである。

なぜ治療方針のためには診断が必要なのか?