2011年4月28日木曜日

初回面接とは診断面接である

初回面接で何をやるのか、という問いに対する答えがこれである。診断を決めること。いや実を言うと、これは正確ではない。治療方針を定めること。そしてそのために診断を確定することが最優先課題となるのだ。治療をするためには診断を下さなくてはならない、という言い方に抵抗を持つ人もいるであろう。私も昔はそうであった。「精神科の診断なんていい加減だから」、とか「いろいろな人が異なる診断基準を使うのだからあてにならない」、という意見も出そうである。診断は単なるレッテル貼りである、という考えも成り立つ。しかし診断はレッテルであったとしても、どのようなレッテルを貼るかは非常に重要なのだ。私がよく用いる表現であるが、「診断というレッテルは、貼った後はがすためにある」のである。すなわち診断とは、患者の示す多様な様相にひとつの切り口を与えてみせたに過ぎないことを自覚して行うものであり、別の視点や切り口からは別のものになりうることを理解しつつ用いることである。
診断はコミュニケーションである
よく診断は意味がない、とかDSMは操作的である、という日本の臨床家の話を聞く。彼らの気持ちが全くわからないわけではないが、アメリカでDSMを使い続けて十数年の経験を持った私としては、そのポジティブな意味も強調するべきだと考える。それは診断とはある種のコミュニケーションの手段であるということだ。誰から誰へのか?臨床家から臨床家へ、である。たとえばDSMの定義するうつ病がある。日本で何かと批判の的になっているこの診断基準をここであえて例に出そう。ある患者についてA医師がうつ病と診断をしたということをB医師が知るということで、その患者に対するA医師の評価の結果が伝わる。「そうか、Aはそのように考えたのか」というふうに。それが診断の目的なのである。その際重要なのは、二人が同じ診断基準であるDSMを用いているということだ。そしてその同じDSMの基準は、出来るだけ細かく作っておくほうが言い。そのほうがA医師の意味するうつ病と、B医師が意味するうつ病が一致するからだ。
するとたとえば「DSMではうつ病として取る範囲が広すぎる」、という批判は本質的ではない、ということになる。A医師もB医師も、その範囲の広いDSMのうつ病という基準を同時に用いているのであるから、同じものを見ているということには変わりないからである。DSMのうつ病に関しては、アメリカでの精神科医のコンセンサスから成り立っている。それを広すぎると主張する日本の精神科医のほうが「正しい」という保証はない。うつ病としてアメリカの精神科医とは別のものをイメージする、ということだけかもしれないのである。(続く)