2011年4月16日土曜日

治療論 その5 (改訂版) 「自分が患者の立場なら何を望むか」から出発する

しかし福島原発の例を見ていると、失敗学の究極の例という気がする。核兵器の廃絶がおよそ不可能であるのと同様に、原発の廃絶もまったく現実味がない。とすると福島の例は「こんな事故が起きる可能性があるぞ」という失敗例であり、将来に生かすべき重要な教訓を与えている。本来は世界が他山の石としなければいけない事件なのだ。それにしてももし情報公開をあまりしない国(特に例は出さないが)で同様の事件が起きたらどうなっていたのだろうとも思う。


1990年、まだアメリカでの留学を始めて間もないころ、和田秀樹先生とは、留学先で一緒にたくさん時間をすごしたものである。あるとき先生がこんなことをおっしゃった。「自分は治療をするならクライン派的にやると思うけれど、受けるならコフート派的な治療がいい。」
この言葉をよく覚えているのは、ある意味ではこれが精神分析や精神療法を学ぶもののひとつの素直な考えだと思ったからである。
和田先生はそのころアメリカでコフート理論を学び始め、その魅力に取り込まれ始めていた。しかし彼はそれまでは日本でクライン派の先生からスーパービジョンを受けていたという事情があり、クライン派的な考え方に慣れ親しんできた。私がメニンガーで出会った頃は、彼の中でちょうどクライン派からコフート派へと視点が移行し始めていたころだったのだろう。彼はそれから帰国して、わが国のコフートの代表的な研究者の一人として活躍していらっしゃるが、彼の上のような率直な言葉がヒントの一つになって、この「治療論その5」が生まれたのだ。
サービスを提供するあらゆる職業的な関係について、「自分がサービスを受ける立場だったらこうして欲しい」というようなサービスをするのは基本中の基本である。そして心理療法についてもそれがいえるはずなのだが、実はこのロジックを心理の世界に当てはめようとすると、急に複雑な話になってしまうのだ。
まずは私にとっての正論。治療者が目の前の患者に同一化し、自分だったらそう扱って欲しいような仕方でその患者を扱うことは、その治療指針の最たるものだと思う。迷ったらそれを考えたらいい。
ただし必ずしも自分がして欲しい扱いとまったく同じ扱いを相手にする必要はない。「自分には人からこう扱って欲しいという傾向があり、それは多少人とは違う」という自覚があればなおさらだ。ただそこを考えの出発点と考えるということだ。
さてこのようにただし書きをつけて用心をしても、すぐさま反論の矢が飛んでくるものだ。運が悪いと、あっさりと「フロイトの唱えた禁欲原則に反する」と切り捨てられる可能性もある。でも次のような理屈を唱えられてしまう可能性もある。
「もし自分が治療者だったら支持的に扱ってもらいたいかもしれない。でもそれが自分のためにならないということもわかっていて、ほんとうなら洞察的に、すなわち厳しい直面化や解釈を用いて治療して欲しいと思うはずだ。だからこの主張は間違っている。」
でもこれは少しおかしな論理なのだ。
もしこれが事実だとすると、治療者が目の前の患者さんの気持ちに成り代わったときに思うことは、「それは支持的に接して欲しい。でも実は厳しい直面化や解釈が必要だということもわかっている。」これは言い換えるなら、「本当は支持的なだけでなく、洞察的にも扱って欲しい」となる。それが治療者が自分が患者の立場だったらして欲しいことであり、そこを「出発点」とすればいいことになる。
ここにあげた反論の例は、結局人は治療者に支持的に接して欲しいという気持ちと洞察的に接して欲しいという気持ちの双方を併せ持つものだ、ということを示唆している。そしてそもそも「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」という思考は重層的だということにもなる。最初に「こうして欲しいだろうな」という考えが浮かんだすぐ次の瞬間には「でもこうしても欲しいな。」という考えも浮かぶ。コフートは共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection である」といったが、結局自分の心が重層的であるからこそ、相手の立場に立ったときの思考も重層的になるのだ。そして結局「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」に対する答えは決して単純ではありえないということがわかる。だからこそ先ほどから、まず最初に浮かぶ答えを「出発点」だといっているわけである。
最初に浮かぶ答えが出発点であるべき根拠は十二分にある。もし「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」に対して最初に浮かぶのが、「黙って聞いていて欲しい」という気持ちであれば、やはり治療はとにかく「黙って聞いている」事からはじめるべきなのである。そしてようやく患者さんの心にある「次の層」が見えてくることになるだろうからだ。