2011年4月6日水曜日

治療論 その1 (改訂版) 昨日の続き

ちなみに「洞察や理解は別のところか訪れる」ということの意味について。私には罪悪感に関する持論があり、それは「罪悪感は、基本的には『許され型』である」というものである。罪悪感に関して、精神分析では「処罰型」と「許され型」という分類の仕方をする。前者は悪いことをした時に罰せられることではじめて罪悪感が植えつけられるという考えで、後者は人に許されて初めて罪悪感が芽生えると考える。前者がフロイトのエディプス理論にたった罪悪感の生成のされ方、ということになるから、分析理論の中では常識の部類に入る。
しかしこの問題も当たり前に考えれば、後者が本来の罪悪感の生成のされ方だということになる。だって悪いことをして、罰せられることで得られるのは、「こんなことをしたら、処罰されるんだ。」という学習であって、罪悪感そのものではない。(もちろん罰せられることで、自分がしたことが罪深いことであったという自覚が生まれる、という場合は別である。)罪悪感は相手が苦痛を味わっていて、自分が何の報いも受けていない(ないしは許されてしまう)という状況で自発的に起こってくる感情だからだ。すると治療でもスーパービジョンでも、「厳しいこと」や「叱責」によって得られるのは、「こんなことをしたら怒られるんだ」という学習効果でしかない。いやそれならまだいいが、「こんなことをしたら、この先生は怒るんだ」という学習だとしたら、もっと悪い。「この先生の前ではこれはしないでおこう」ということであり、決して汎化されない学習でしかない。「この先生の観ていないところでは堂々とやろう」というのとあまり変わらないからだ。
私は世の中で起きる叱責、説教、小言、アドバイスの大半がこのような形で無意味に行われていると感じる。そしてそれは残念ながら、精神分析における「解釈」にも当てはまってしまう。解釈の内容がいかに真実をついていても、いや真実をついているからこそ聞く人に痛みを持って体験され、その結果として叱責と同様の意味を持ってしまう。そしてその大半は無効なものとなってしまう。こんなことをしていて空しくないはずはないのだ。
私はフロイトの「禁欲規則」が意味のないものとは考えない。むしろ彼がこれを言い出したことで、考える材料を豊富に与えてくれていることに感謝するべきであると思う。ただしフロイトはあまりに人を理想化し、「人間は苦痛に耐えても真実を求める」ということを自分以外にも当てはまるものと勘違いしていたように思う。
では洞察はどういうときに生まれるか。他人から許されたときに、治療者が一番肝心なところに触れなかったときに、そこに安心感が生まれ、心の余裕が生まれる。その時に人はやっと自省する力を取り戻す。防衛に使われていたエネルギーが使用可能になるからだ。その時に実は他の人から見れば明らかであり、自分だけが否認していたような何かが見える。「自分ってなんて意地を張っていたんだろう?」とか「相手の痛みをあまり考えていなかったんだな。」などの素朴な発想が可能になるわけだ。