精神療法はいかにあるべきかについて考える際には、フロイトの「禁欲原則」について、特にその功罪について真正面から捉える必要がある。
ある高名な分析家の先生なら、精神分析の技法論には次のようなことを書くはずだ。「精神分析においては患者の願望を満たしてはいけない。すなわち患者に愛情を与えたり褒めたりすることは慎まなくてはならない。治療者は患者が見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うことが、その本分なのだ。」。いわゆるフロイトの禁欲規則 rule of abstinenceの考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の出発点といって言い。
この禁欲規則、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。というかこの問題に真剣にこだわっていない治療者は、私としては力不足の表れだといいたい。
精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて常に考えてきたが、このフロイトの禁欲規則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した規則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの規則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合が多いのであるから、この問題は深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、ましてや治療場面でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。言う資格がないと思うことも非常に多い。でも彼らを正直な気持ちで評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲規則とは逆のことをしているのである。そこにやましさはない。それはなぜだろうか?
もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、その「どうかな」という判断が実は非常に怪しいことを知っているからだ。上司に指導を受けたり注文をつけられたりという体験を少しでもお持ちの方は、それがかなり恣意的で理性的には受け入れがたいものであることが実に多いことをよく知っているであろう。私がバイジーさんの報告内容を聞いて「えっ、それってどうかな?」と思う際、そのかなりの部分が、実は私の側のバイアスや好みに起因しているものであることがわかっている。
ただしもちろんバイザーとして、先輩として明らかに注文をつけるべきことも当然あるだろう。(それはそうである。だからバイザーの役割を負っているのである。)そこでその言葉を飲み込む二番目の理由。それにより患者やバイジーが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより問題なのである。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲規則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた規則なのだ。
言葉を飲み込む第三の理由。人は注意されたことはたいてい聞かない。聞いているふりをすることは多いが。私自身がそれをこれまでやってきている。洞察や理解は、おそらく全然別のところから訪れることが多いのだ。
さて以上の三つの理由が解消されていると感じた場合、私は意見を言うことになる。おずおずと、あるいは注意深く。それでも後で言われてしまう。「あの時は先生にずいぶん怒られました。」
だから怒ってないって。