2011年3月3日木曜日

原稿の書きかけ

ある専門誌から、ある原稿の依頼が舞い込んだ。しかも「タイトルは自由」ということなので、書き出してみた。

・・・・・ 私が日ごろから口にしたいと思っていたことを述べたい。ひとつは医師と精神療法との関わりということである。私が精神科医として活動を始めてからなんと30年近くも立ってしまったが、その間に精神科医の間に見られた変化のひとつとしてあげられるのが、彼らがあまり精神療法に興味を持たなくなり、むしろ薬物療法により興味を示すようになったということらしい。これはあまり若手の精神科医の接触がない私の職場ではあまり実感のないことであるが、私がかかわりを持っている精神分析学会でも、精神科医の参加は年々少なくなってきていることは、その現われのひとつと見ていいであろう。
私個人としては、精神科医になることと精神療法に興味を持つことはほぼ同じようなことを意味するし、もう少し言えば、薬物療法に対する興味と精神療法に対するそれとも矛盾しない。それはどういう意味か。
患者が問題を抱えて医師のもとを訪れる際、医師はそれを理解し、解決するという使命を帯びている。その問題のほとんどが、患者の人生におけるある種のきっかけと、患者自身の中枢神経に起きている何らかの異変の両方をうかがわせる。前者については医師からのある種の言葉かけと問題解決のための共同作業により多少なりとも改善する可能性がある。これはそれがどのような形をとるとしても、精神療法の範疇に入ると見ていいだろう。後者は主として生物学的な治療、特に薬物療法が該当することになる。
このように整理すると、精神科医が精神療法に興味を持たない、あるいは薬物療法にのみ興味を持つということはかなり不思議な現象ということになる。なぜなら患者との共同作業による問題解決に興味を持たないとしたら、精神医学を専門とする意味がそもそもないことになる。また後者に関しては、それが問題解決のひとつの方法に過ぎないとしたら、やはり同様に前者にも興味を示して当然だからだ。かつて精神分析のトレーニングを受けることに情熱を燃やしていた精神科医である友人がいる。彼が精神分析のトレーニングを続けることに対する興味を失いつつあるときに、それはなぜかを聞いてみた。すると「精神療法には興味を持つけれど、それ以外にもやるべきことが沢山あるからね。たとえば薬物が効いて患者さんがよくなった時の感動も、精神療法によりよくなった場合と変わらないから。」この言葉を今でも思い出す。
さて精神科医の中にはこんなことをいう人もいるだろう。「いや、精神療法には興味があるけれど、何しろ時間がなくて・・・・」それはわかる。しかしそのためにある秘策があるのだ。(続く)