2011年3月19日土曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(7)

今日町を歩いていて感じたのだが、車が少ない。気のせいだろうか?でもあれだけガソリンが貴重だと、気楽に運転する気になれないであろう。これって二酸化炭素削減の最大の切り札かもしれない。ガソリンが希少になり、あるいは高価になること。そして電気自動車の時代になったら、電力が規制されること。もちろん電力の供給が可能なかぎりはその制限は至難であろうが、原子力発電への見直しが進んだとしたら、深刻な電力不足に陥るかも知れない。町のネオンが半減して思うのだが、これってそんなに悪くない。夜道が暗いって、むしろ自然ではないか。計画停電で一番変わったのは、人の就寝時間らしい(当然早くなった)。それもまた悪くないのではないか?

・・・という風にしてB先生とAさんの治療は続いていくのであるが、「これだとまるでCBTじゃん」、といわれてもしょうがない。私としては「精神分析的なCBT」という書き方をしても、気のきいたCBTの治療者だったら言いそうなことばかりである。っていうか、「分析的って何?」ということがまたまた問題になりそうだ。現在の精神分析の最大のジレンマ、というより日本における精神分析というべきか、は精神分析が非常に大きな希望を背負っていると同時に、その根幹の部分が空洞化しつつあることを、人は知らないということだ。禁欲原則の遵守、受身性、転移の解釈、無意識的な内容の意識化、探索的な手法(支持的、ではなく)、といった精神分析の根幹の部分が、相対的な形でしか意味をなさない以上、(つまり禁欲原則は、それが必要な場合に用いる、転移解釈はそれが適切な場合に用いる、ということ)「これは分析的です」、ということの内実が実に曖昧になっている。実はそこが精神分析が最高に面白いところなのであるが、そのためには「新しい精神分析理論」の待望ということになる。私の思い描く新しい分析理論は非常に未来志向的で創造的なものである。それでいて人が自らの心のある部分を隠しておきたい、見ずにおきたいという力動に最大の注意を払い、それを必要に応じて扱っていく。意識レベルでも、無意識レベルでも。ただその手法として、自由連想はほんの一つにしか過ぎないというわけだ。
ということで対人恐怖の(私流の)精神分析的アプローチに加えたいことを、忘れずに書いておく。

対人恐怖傾向のある人の持つ控えめさ、謙虚さの美徳についても扱う

これは米国の「恥ずかしがりを克服しようOvercome your Shyness!」的な本を読んでつくづく感じることだが、社交恐怖症がDSM-Ⅲ(1980年)に乗じてデビューしてからのアメリカの恥ブームは、恥をなくすべきもの、克服すべきもの、という論調に終始している。それはそうだろう。アメリカで恥ずかしがっていたら、いつまでたっても発言が出来ない。人に好かれさえもしないのだ。自分自身で体験した。だからアメリカ人は控えめさ、謙虚さの意味もよくわからないし、社交恐怖が美徳に繋がるなど考えない。しかし私は内沼幸雄先生の「対人恐怖の人間学」に目を見開かれた人間であるから、それが実は「滅びの美学」に結びついていることを常に忘れないようにしている。そして対人恐怖傾向にある人が、おおむね人の気持ちをわかりすぎ、他人を優先し、人に尽くす傾向にあることに注意を払うこともまた重要であると考えている。もちろん対人恐怖の人には、他人に対する恐怖や不安が手伝った結果として過剰に注意を払いすぎて、自らを情けなく思うという傾向があるのはもちろんである。しかし彼らの人格構造を全体として捉えた場合は、自分の存在を主張することへの恐怖や不安が、他人に喜びを与える感覚(贈与の感覚)と結びついているという点を無視するわけにはいかない。世の中には「自分が、自分が」という人たちがたくさんいる。数としては多くないのであろうが、そういう人たちが社会の支配層を占める傾向にあるために、余計に目だって腹立たしい。でもそれは他方でそれらの人たちに喜んで道を譲る心優しい対人恐怖予備軍の人々がいるから可能なのである。問題は彼らが単に道を譲るだけに満足するのではなく、譲りすぎることへの不甲斐なさや自らもまた主張したいという願望のために大きな葛藤を体験していることにある。
私は対人恐怖の根幹にある力動は、この人に譲りたいという気持ちと裏腹の自分を主張したいの葛藤、内沼先生が表現するところの 没我と我執の葛藤にあると思うし、それを扱ってこそ分析的なアプローチと考えるのである。