2011年3月5日土曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(1)

「社交恐怖の精神分析的なアプローチ」は今年の5月の末が締め切りの依頼原稿だが、ここを利用しないとどうしても書き出せない。というのもどうにもモティベーションが湧かないからだ。社交恐怖(しばらくは対人恐怖と同義として用いる)には興味はある。(自分がある意味ではそうだ。)それに精神分析にも興味がある。(これでもブンセキカだ!)しかし「社交恐怖の精神分析」となると、とたんに何を書いていいかわからなくなるのである。
ただ某学術誌(「●神●学」)の編集者が私に原稿を依頼して来た理由はわからないでもない。私は「精神分析における恥」というテーマの三部作をかつて「精神分析研究」誌に寄稿したこともあるくらいだからだ。1992~1994年くらいの話だ。ただその論文では、「精神分析的に恥の病理としての社交恐怖を扱うことにはかなりの限界がともなう」、ということを書いたはずである。ある意味では伝統的な精神分析への内部批判といってもいい。その路線を踏襲すればいいということだろうか?いくらなんでもそれは気が引ける。
実はその路線で書いた本が1998年の「恥と自己愛の精神分析理論」という本である。本まで出しながら遠慮してもしょうがないので原稿を引き受けることにしたが、同書の発表以来あまりまとまってこのテーマについて考えることはなかったから、一つのいい機会といっていいだろう。
「精神分析における恥」のテーマで論文を書くアイデアを得た頃は、まだ留学して4年くらいしかたっていず、米国での居場所がやっと少しずつわかってき始めた頃だった。その頃向き合っていたテーマは、簡単に言えば、「精神分析って、対人恐怖を扱う素地がないんじゃないか?例えば対人恐怖の基本的な病理としては恥の感情があるが、恥はそもそも精神分析では実に過小評価、ないしは無視されているという事情があるのではないか?」というものだ。「精神分析の限界を見つけたぞ!してやったり」的な雰囲気もあったことは認める。
しかしこの考えは私のオリジナルともいえなかった。ヒントを与えてくれたのが、当時の米国の精神分析界におけるいわゆる「シェームニック」(恥の議論の愛好者)たちの活躍である。その筆頭がアンドリュー・モリソンという分析家で、それ以外にもドン・ネイサンソン、レオン・ワームサー、フランク・ブルーチェックたちが名を連ねていた。その中でもブルーチェックはトピーカの精神分析協会に講義をしに来ていたために交流を持つことが出来た。彼らは一様にコフートの影響を受けていて、「コフートが問題にしていたのは恥の病理だったのだ」と主張した。自己愛の病理とは言い換えれば恥の病理であり、フロイトがまったく無視していたテーマだ、という主張である。
この理論の流れと、ちょうど同じくトピーカで私が謦咳に接することが出来たグレン・ギャバードのナルシシズムの二類型に関する研究が私の中で一致した。米国における対人恐怖の議論の欠如 → 最近のコフート理論に影響を受けた分析家たちの「恥の病理」への関心 → 自己愛の病理の一類型としての社交恐怖の捉えなおし というあたりでこのテーマが私の中で一つの形を成していった。それともう一つはアメリカのDSMにおける社交恐怖の公式な扱いという追い風が重なった。(続く)