2011年2月8日火曜日

うつ病再考 その(3)江藤淳に抗うつ剤を投与してみる― 「心のうつ」か、「脳のうつ」か

昨日の続きだ。精神科医の柏瀬先生は、江藤氏はうつだった、という主張だ。つまりは抗うつ剤により、自死はふせげたのではないか、というのである。それに対して作家の谷沢栄一は「それはとんでもない」、という立場をとる。ある意味では江藤の生き方は、それなりの必然性を孕んでいたのであり、それがうつのせいだとか、治療すべきだったとかは、江藤淳に失礼だ、というわけだろう。そのような対談が、「文学と医学の相剋」と題されて、「諸君!」2000年3月号の柏瀬先生の原稿の後に載っているという。
(ちなみにネットで検索しているうちに、この二人の議論について、精神科医の立場から林公一先生がかなり詳細に論じていることを知った。(http://kokoro.squares.net/depstd.html))
そこでここで大変僭越ながら、江藤先生に、抗うつ剤を飲んでもらおうと思う。もちろんもう亡くなった方だし、私は彼の治療者でもない。だからあくまでも仮想上の出来事である。私がよく使うアナフラニールを用いて、少しずつ量を増やし、50ミリにして幸運にもそれが効いたとする。すると何が起きただろうか?おそらくうつ病の症状のうちvegetative symptoms (つまりメランコリー的な症状)はよくなるかもしれない。自殺念慮もある程度は収まったかもしれない。でも奥さんをなくしたことの失望や生きる意味の喪失といった症状はおそらく変わらないだろう。江藤淳は脳梗塞も病んでいたから事態は複雑だが、アナフラニールが目いっぱい効いていても、やはり生きていくことのむなしさはあまり変わらなかったのではないだろうか?要は、江藤氏は自死はしなかったかもしれないが、生ける屍と同じような不幸な余生を送ったのであろうと思う。
僭越にも江藤氏に抗うつ剤を投与してしまった私がそれにより何を言いたいのか? 最愛の人をなくしたことによる心のショックは、人をうつにしてしまうことがある。それはその愛情や執着の強さと共に、それ以外の人生における生きがい、喜びがあるかいなかにもよるだろう。その意味ではうつは正常な人の正常な反応ともいえる。しかしそれがこううつ剤により少しは改善する、というのはどういうことか?それはわからない。ただひとつの理解の仕方は、うつを二つのコンポーネントに分けるということだ。いわく脳のうつと心のうつ。この路線で学生の講義を数年間やってきたわけである。